詩篇51:12

26.2.15.

奉仕について共に御言葉から学びたい。

1.奉仕への召し-私たちは奉仕に召された

私たちが救われたのは、自分の「行いによるのでは」なく、神から一方的に与えられた「恵み」であり「信仰」による(エペ2:8-10)。しかし、私たちが救われた目的は、「良い行いをするため」であるとパウロは教えている。Cf.テト2:14。この「良い行いをする」とは、「良い働きをする」という意味で「奉仕する」ということ。私たちが救われたのは、ただ自分が天国に入るためだけではなく、「良い行いをする」ため、「奉仕者」となるためだった。私たちの救いには「天国への召し」だけではなく「奉仕への召し」も含まれていた。私たちは、「天国」に召されただけではなく、「奉仕」にも召された。何もせず、ただ天国に行く日を待つだけの人生を送ることは間違っている。神は私たちをこの地上に残された。それは、私たちがこの地上で「良い行いをするため」であった。私たちは「良い行い」をしたから救われたのではないが、「良い行いをするために」救われた。神は、私たちが「良い行いをする」者、奉仕者になって欲しいと望んでおられる。

2.奉仕者の態度-喜んで仕える

「奉仕」と一言で言っても、様々な奉仕がある。その奉仕の多くが、結局は人々に仕えることであることが分かる。聖書は「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」(Ⅰペテ4:11)と言っている。しかし、私たちは単に人々に仕えているだけではない。神に仕えているのである。神に仕えることは、人々に仕えることを通して現される。イエスは、「羊と山羊」の例え話の中で(マタ25:31-46)、王の言葉として「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタ25:40)と言われた。単に人に仕えているのではなく、神に対して仕えているという認識を持つことが必要。エペ6:7には「人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい」と書いてある。

Ⅱコリ9:5,7には、献金をささける時の心構えについて書いてあるが、「惜しみながらするのではなく」(5)、「いやいやながらでなく、強いられてでもなく」(7)、という原則は、神に仕えること、奉仕にも適応されるのではないだろうか。「神は喜んで与える人を愛してくださいます」(7)とあるが、私たちは、どのような心の態度で奉仕しているだろうか。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサム16:7) 神は、心の中の思いを見ておられる。「しなければならない」という義務感、「自分だけしないのは申し訳ない」という罪責感、「しないと祝福がない」という恐れから奉仕するのではない。奉仕出来ること、神に仕えることが出来ることは、恵みである。奉仕してあげているのではなく、奉仕させていただいているのである。神は、私たちが喜んで奉仕することを願っておられる。神はその奉仕を喜んで下さる。

3.奉仕の原動力-救いの喜び

どうしたら、喜んで仕える、奉仕することができるのか。ダビデは「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように」(詩51:12)と言っている。罪を犯してしまい、神の裁きを宣告されたダビデにとって、まず取り戻したかったものは、「救いの喜び」だった。すなわち、罪を赦されて、神との交わりを回復させること、神との平和だった。罪の赦し、神との平和がないままでは、喜んで仕えることは出来ない。仕えること、奉仕の原動力となるものは「救いの喜び」。私たちは、神が救って下さったことへの深い感謝の思いをもって、喜んで仕えるのである。

この「救いの喜び」を失わないようにしなければならない。もし、「救いの喜び」なしで、仕えていくなら、やがて疲れ果ててしまい、心の伴わない表面的、形式的、律法的な奉仕となってしまう。黙2章のエペソの教会は、主のために「労苦と忍耐」をしてきた。しかし、主は「あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」(黙2:4-5)と語られた。詩103:2には「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」とある。

また、常に「救いの喜び」を持つために、御霊によって主との交わりを持つことが必要。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ロマ5:5)

常に、神の愛、神との平和、神の救いという「救いの喜び」に立ち返らなくてはならない。

 

私たちはみなやがて神の御前に立つことになる。「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」(Ⅱコリ5:10) その時、どれだけ仕えてきたかを評価され、その奉仕に対する報いが与えられる。仕えることにどれだけの時間とエネルギーを費やしてきたかについて評価される。「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。」(マタ16:27) 神は私たちが「仕える者」になることを願っておられる。喜んで仕える者となろう。「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハ12:26)

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