創世記25:20-34
26.1.18.
人生には、大小様々な選択がある。何を基準に選択していったらよいのか。今日は、エサウとヤコブの選択から学ぶ。
1.エサウとヤコブの違い
アブラハムの息子イサクは、40歳の時にリベカと結婚した。しかし、リベカは不妊の女だったため、長い間子どもが与えられなかった。イサクは、主の前に行き、子どもが与えられるようにと祈った(21)。すると、「主は彼の祈りを聞き入れ。妻リベカは身ごもった。」(21) 主はイサクの祈りに答え、イサクが60歳の時に(26)、子どもを与えて下さった。つまり、イサクは、子どもが与えられるまで、約20年間、祈り続けていたのであった。
リベカは双子の男の子を産んだ(24)。「最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それで、彼らはその子をエサウと名づけた。」(25)「エサウ」とは「赤い」、「毛深い」という意味。エサウは「エドム人」の先祖。「その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた。」(26)「ヤコブ」とは「かかと」という意味。
2人は、性格が全く対照的な人となった。「エサウは巧みな狩人、野の人であったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。」(27) エサウは、狩りの技術を持ち、野山を走り回る野性的、行動的な人だった。ヤコブは、「穏やかな人」となった。「穏やか」は、ヘブル語で「タム」といい、「正しい、完全」という意味。Cf. 「ノア」創6:9。「ヨブ」ヨブ1:8、22:3。これは、罪がないという意味ではなく、神に対する姿勢が正しいという意味。このことから、ヤコブは、主に対する信仰を持っていたと考えられる。
エサウとヤコブに対する父イサクと母リベカの愛情は違っていた(28)。イサクは、猟で獲ってきた獲物を美味しい料理し食べさせてくれるエサウを愛した。リベカは、いつも家にいて家のことをやってくれるヤコブを愛した。
2.肉的な選択をしたエサウ
「さて、ヤコブが煮物を煮ていると、エサウが野から帰って来た。彼は疲れきっていた。」(29) 「エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」」(30) エサウは、その食べ物を早く食べたくて仕方なかったのだろう。「するとヤコブは、「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言った。」(31)「長子の権利」とは、長男に与えられる特権で、財産の2倍の分け前を受ける特権(申21:17)。それだけではなく、神の祝福を受け継ぐ特権に与ることも意味する大切な権利であった。
「エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私とって何になろう」と言った。」(32)「ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼は、自分の長子の権利をヤコブに売った。」(33) エサウは何の躊躇もなく、簡単に、自分の大切な長子の権利をヤコブに売ってしまった。「ヤコブがエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮った。」(34)
エサウは、自分が何を失ってしまったのか全く分かっていなかった。大切な長子の権利、財産だけではなく、神の祝福を受け継ぐという権利を失ったのに、何も感じない本当に霊的に鈍感な人間であった。一言で言えば「愚か者」。エサウは、今、自分の欲望が満たされれば良いと考えていた。目に見えない将来の神の祝福など、今の自分には何の役にも立たないと考えていた。いつ実現するか分からない約束より、今の自分を満たしてくれるものが大切で、選んだ。エサウは、「長子の権利を侮った」。新改訳第3版「軽蔑したのである。」
3.霊的な選択をしたヤコブ
ヤコブは、神の祝福を求める人であった。ヤコブは、「長子の権利」がいかに素晴らしく、価値があり、大切なものか分かっていた。エサウとヤコブは双子で、母の胎から出て来る順番が後だっただけで、「長子の権利」が自分のものにならないことを不満に思っていたかもしれない。日頃から、エサウの持っている「長子の権利」が欲しいと思っていたのだろう。そして、その「長子の権利」を得るための思わぬチャンスがやって来た。
恐らく、ヤコブは自分が食べるための料理を作っていたのだろう。そこに猟で飢え疲れたエサウがやって来て、その料理を食べさせてくれと頼んだ。ヤコブは、日頃から「長子の権利」が欲しい、神の祝福が欲しいと考えていたので、すぐに「長子の権利」と引き替えに料理を与えると言えた。
この料理をエサウに与えてしまったら、自分の分は無くなり、食べられなくなる。しかし、たとえそうなっても、ヤコブは「長子の権利」が欲しいと思った。心から「長子の権利」が欲しかったので、一食食べられなくても惜しいと思わなかった。ヤコブはエサウと違い、今は見えなくても、将来与えられる大きな祝福を見ていた。ヤコブは、神の祝福を何よりも価値あるものと考え求めた。こうして、ヤコブは、エサウに料理を与えた。おそらく空腹のままであったが、心は満足し、喜びに満たされていただろう。大切な「長子の権利」を失ったことに気付かず、満腹して去って行ったエサウとは違う。
私たちはヤコブのように、神の祝福を永遠に価値あるものとして、求めているだろうか。
それとも、エサウのように、神の祝福を軽んじて、一時的な目先の欲望を満たすことを求めていないだろうか。やがて、エサウは神の祝福を失っていく。Cf.マタ25:29。この世の一時的な喜びを優先して求めるのではなく、神の祝福を優先して求めよう。「また、不品行な物や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な物がないようにしなさい。」(ヘブ12:16)
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