ヨハネ13:1-17
26.3.15.
イエスは弟子たちの足を洗われた。これは「過越の祭りの前」(1)、すなわちイエスが十字架にかかれる前日(木曜日)の晩、弟子たちと共に「最後の晩餐」と呼ばれる「過越の食事」の時の出来事。「イエスによる洗足」は、どのような意味があったのか、何を教えているのだろうか。
1.イエスは愛を示して下さるお方
「イエスは、の世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(1) イエスは、弟子たちとの別れの時が近づいていることを知っていた。イエスは、これから十字架にかかり死んで葬られ、3日目によみがえり、やがて天の父なる神の許に帰らなければならなかった。弟子たちを愛していたイエスは、「彼らを最後まで愛された」。新改訳第三版では、「その愛を残るところなく示された」と訳されている。
しかし、弟子たちは決して立派な者たちだった訳ではなかった。彼らには欠点や弱さがあり、しばしば失敗してしまうこともあった。この時、弟子たちの中には、イスカリオテのユダもいた。ユダは、悪魔に心を許し、イエスを裏切って、ユダヤ人に売り渡そうとしていた。「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。」(2) イエスは、ユダがご自分を裏切ることを知っていたが(21-27)、ユダにさえ愛を示された。
またこの後、イエスが捕らえられると、弟子たちはイエスを見捨てて逃げてしまう。また、ペテロは、イエスを知らないと3度も否定してしまう(18:17,25,26-27)。イエスは、全てを承知の上で、それでも弟子たちとペテロを愛していた。イエスは、弟子たちの足を洗うことによって、彼らへの愛を「最後まで」表し、「その愛を残るところなく示された」。
私たちも不完全な者であり、欠点や弱点があり、しばしば失敗したり、イエスを裏切ったり、悲しませてしまうこともある。しかし、イエスは、それら全てをご存知の上で私たちを愛して下さる。
2.イエスはしもべとなられたお方
「イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」(4)「それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。」(5) 当時は、家に入る時や宴会の前に、砂やほこりを落とすために足を洗った。そして、「足を洗う」のは「しもべ」がする仕事だった。ところが、「イエスは夕食の席から立ち上がって」、「弟子たちの足を洗い」始めた。その時、弟子たちの中には、「しもべ」となって、弟子たちの足を洗おうとする者は誰もいなかったのかもしれない。
かつて弟子たちは「誰が一番偉いか」ということを議論し合っていた(マコ9:34)。また、イエスは、エルサレムへと向かっている時に、弟子たちにご自分が十字架にかかって死なれることを予告していた(マタ20:17-19)。その時、ヨハネとヤコブの母が自分の2人の息子を
イエスの次の位にして欲しいと頼みに来た(マタ20:20-21)。それを聞いた他の10人の弟子たちは、ヨハネとヤコブに対して腹を立てた(マタ20:24)。結局、弟子たちはみな自分が偉くなろうとしていて、誰もしもべになろうとしなかった。
イエスは彼らに「仕える者になりなさい」、「しもべになりなさい」と言われた(マイ20:26-28)。イエスが「上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ」(4)、「たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいで」(5)拭く姿は、しもべや奴隷たちが主人の足を洗う時の姿であった。イエスは神の御子であり、神ご自身だったが、私たちを救うためにへりくだり、私たちと同じ人間の姿となって来られ、十字架にまでも行かれた。イエスは、「仕える者」、「しもべ」となり、「自分のいのち」も与えて下さった。ピリ2:6-8。
3.イエスは罪をきよめるお方
イエスがペテロの足を洗おうとすると、ペテロはイエスに「決して私の足を洗わないでください」(8)と言った。それに対して、イエスは「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」(8)と答えられた。慌てたペテロは、今度は「足だけでなく、手も頭も洗ってください」(9)と言った。それに対して、イエスは「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです」(10)と答えられた。当時、宴会に招かれた時、自分の家を出る前に全身水浴してから宴会に行った。そして、宴会場に着くと、砂やほこりのついた足だけを洗う習慣があった。
この「足を洗う」という行為は、「罪の赦し」、「きよめ」を意味していた。イエスを信じた時、全ての罪は赦され、全ての悪や汚れからきよめられた。これが「水浴した者は…全身きよいのです」という状態です。しかし、私たちがもはや罪や過ちを犯さない完璧な人間になったわけではない。私たちはまだ肉の内にあり、罪深い肉の性質が残っている。そのような弱さのため、日々の生活の中で、過ちを犯したり、失敗してしまうこともある。しかし、罪を赦し、きよめていただくために、イエスをもう一度信じ直す必要はない。犯してしまった罪だけを告白し、その罪について赦していただけばよい。ちょうど道を歩いているうちに汚れてしまった足を洗うのと同じ。イエスは、私たちの罪を赦し、私たちを悪からきよめて下さる。Ⅰヨハ1:9。
イエスが私たちを愛して下さったように、互いに愛し合おう。ヨハ13:34。Ⅰヨハ4:9-11。イエスがへりくだり仕える者となって下さったように、互いに仕え合おう。マタ20:26-28。イエスが私たちを赦して下さったように、互いに赦し合おう。エペ4:32。コロ3:13-14。私たちが互いに愛し合い、仕え合い、赦し合うところに、神の国の祝福が注がれる。
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