15.01.18
いちじくの木を呪われたイエス様
マルコ11:12-14, 20、ヤコブ2:18
聖書の中に、イエス様がいちじくの木を呪われたという話があります。いったいなぜイエス様がいちじくの木を呪われたのでしょう。
1.イエス様は私たちの将来の実を見ておられる
あるとき、イエス様は空腹を覚えられました。遠くに葉の茂ったいちじくの木が見えたので、何かないかと見に行かれました。すると葉のほかは何もなかったので、がっかりして木を呪われました。でも実のなる季節ではなかったので、実がなくて当然だったのです。それにもかかわらず、イエス様はいちじくの木を呪われました。実は、イエス様は、実がなくてがっかりされたのではありません。「何もなかった」のにがっかりされて「今後だれもおまえの実をたべないように」と言われたのです。
このときは過ぎ越しの祭りの時期であり、3月下旬か4月上旬頃です。いちじくの木は、8月から9月ごろに熟して食べごろになります。3月や4月では当然、実がなっていません。その代わり、実の元になる青いコブのようなものがあるのです。このコブが将来実になるのです。もし青いコブが春にできていなかったら、そのいちじくは実がなりません。どんなに葉が生い茂っていても、それは実のならない無益ないちじくなのです。そのいちじくには葉のほかは何もなかったので、それは将来も実が実らない無益ないちじくだったのです。それでイエス様は非常にがっかりされたのです。
イエス様の空腹を満足させるような実とは何でしょう。それは、神様の御心を行って成し遂げることであり、具体的には、人がイエス様を信じるということです(ヨハネ4:32-34)。人々が救われてゆくなら、それはイエス様を喜ばせる実なのです。でももし実が実っていなくても、将来、実を実らせる可能性があるなら、それは青いコブです。イエス様はそのコブを見て、将来の実を見出し、喜んで下さるのです。アブラハムは神様の御心にかなった歩みをしていました。このとき、神様はアブラハムの将来の姿を見ておられました(創世記15:5)。
2.イエス様は私たちの今の行いを見ておられる
イエス様が求めておられた、青いコブのようなものとは、私たちにとってどのようなものなのでしょうか。
① イエス様のために働こうという前向きな気持ちです。初めから諦めてやる気を失っていたら、将来何もありません。福音宣教でも、自分には無理だと諦めて、何もしようとしないなら、決して永遠の実を結ぶことはできません。
② イエス様の御心に従う謙遜さです。自分の実ではなく、神様の御業が現れるようにと願っているなら、イエス様の御心に従うことが必要です。そのためには御心を知らなくてはなりません。日々聖書を読んで、イエス様の御心を学びましょう。
③ 行動することです。どんなに立派な信仰があっても、何もしていないなら、将来は何もないのです(ヤコブ1:22-25、2:18)。アブラハムも神様のみことばに従い、まだ見ない土地へと歩き始めました。
3.イエス様は私たちが福音のために働いている姿を見ておられる
実を実らせるために、福音の働きはとても大事です。福音のために働き、人々が救われて永遠のいのちを持つなら、永遠の実が実るのです(ヨハネ15:16)。しかし福音のための働きは、人々のニーズに答え、人々に仕え、また自分自身も日頃から堅実に歩み、信頼されるようにならないといけません。こうしてようやく、一言ずつ、神様のメッセージを伝えてゆくことができるのです。人々はみことばを何度も聞くうちに、徐々に心が開かれ、信仰を持ち、神様に仕える人になって、ようやく実が実ります。福音のために働いても、すぐに実が実るとは限りませんが、みことばを語り続けることで、実が実るのです。実が実る可能性があるなら、イエス様は喜んでくださいます。そして大いに祝福してくださるのです(マルコ10:29-30)。
みことばを宣べ伝えることは教会に与えられた使命であり、クリスチャンの任務です。
信仰をもっていることだけで満足せず、みことばを行う者になりましょう。そして福音のために働きましょう。そうすれば、いつかきっと永遠に残る実を実らせることでしょう。イエス様は私たちの中に将来の実を見つけて喜んで下さり、多くの実を結ぶことができるように祝福してくださるのです。
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