19.2.3.
Ⅰテサロニケ5:16-18には、「いつも喜んでいなさい」、「絶えず祈りなさい」、「すべての事について、感謝しなさい」とあります。これらの3つの事柄は、クリスチャン生活の基本と言えます。今日はこの中から、「いつも喜んでいなさい」ということについて学びます。どうしたらいつも喜び続けることが出来るのでしょう。何を喜んだらいいのでしょう。
1.天に名が記されていることを喜ぶ(主の救いを喜ぶ)
イエスは、70人の弟子たちを選び、「ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしに」(ルカ10:1)なりました。やがて、「七十人が喜んで帰って来て」(ルカ10:17)、イエスに報告しました。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」(ルカ10:17) イエスは、彼らの報告を喜んで聞かれたに違いありません。しかし、最後にこのようにも言われました。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。」(ルカ10:20) イエスは、「目に見える現象を見て一喜一憂してはならない」と言われたのです。
祈りが答えられること、必要な物や健康が与えられること、勉強も仕事も家庭も上手くいくということは、嬉しいことであり、感謝なことです。しかし、祈りが答えられないことも、不足することも、病になることもありますし、物事が上手くいかないこともあります。目に見える状況だけに囚われていると、気持ちは落ち込んでしまいます。ですから、私たちは、目に見える現象に囚われてはならないのです。Cf.Ⅱコリント4:18。
イエスは「あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と言われました。私たちの「名が天に書きしるされている」ということは、天にある「いのちの書」(黙示20:12,15、21:27)に名前が書き記されているということです。「いのちの書」には、イエスを信じる人々の名前が書いてあり、その人たちは永遠のいのちが与えられ、天に「国籍」(ピリピ3:20)を持っています。ですから、「名が天に書きしるされている」とは、救われているということです。救いに喜びの根拠を置く時、いつでも喜べるのです(Ⅰペテロ1:8-9)。
2.主の臨在の中で喜ぶ(主の臨在を喜ぶ)
ダビデは、「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」(詩篇16:11)と言っています。この「あなたの御前」は「主の臨在」を表します。11節は、英語で、“In Your presence is fullness of joy”(NIV)となっています。これを日本語に訳すと、「あなたの臨在に喜びがあふれています」となります。ダビデがこの告白をした時というのは、平穏な時ではありませんでした。1節の「神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます」という言葉から、この時、ダビデは、危険な状況の中に置かれていたことが分かります。しかし、そのような中でも、ダビデは「わたしはいつも、私の前に主を置いた」(詩篇16:8)、と言っているように、常に、主の前に出て行き、主ご自身を求めたのです。
私たちも、ダビデのように、苦しみ、悲しみ、悩みの中でも、主を求め、主の前に出て行き、主の臨在の中に入って行きましょう。聖書は、「喜び歌いつつ御前に来たれ」(詩篇100:2)、
「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ」(詩篇100:4)と、感謝と賛美の歌をもって、主の御前に近づき、主の臨在に入るようにと教えています。
ダビデは、主の臨在があるから、「私はゆるぐことがない」(詩篇16:8)と宣言しています。そして「私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる」(詩篇16:9)と告白しています。ダビデは「主の臨在の中に喜びがある」と言っているのです。主の臨在の中で、主の力と愛に包まれ、主の慰めと励ましを受けることが出来ます。主の臨在に満たされ、主に触れられる時に、喜びが湧き上がって来るのです。
3.望みを抱いて喜ぶ(主の愛を喜ぶ)
パウロは、ローマ12:12で「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」と言っています。ここに大切な原則があります。それは、「望み」すなわち「希望」があれば、「喜び」を持つことか出来、どのような「患難」にも「耐え」ることが出来るということです。その希望はどこから来るのでしょうか。ダビデは、詩篇62:5で「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ」と告白しています。自分の置かれた状況や人を見たら失望します。自分を見たら絶望します。しかし、主を見上げるなら希望が持てるのです。
私たちは、主がどのようなお方か思い巡らす時、希望を見出すことが出来ます。
・主は、私たちの人生に災いではなく良い計画を持っておられます(エレミヤ29:11)。
・主は、「すべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)お方です。
・主は、試練は与えの中にも脱出の道も用意して下さいます(Ⅰコリント10:13)。
主がこのように私たちに良くして下さるのは、主が私たちを愛しておられるからです。この主の愛の故に、愛なる主の故に、私たちは希望を持つことが出来るのです。
ですから、パウロは「患難さえもよろこんでいます」(ローマ5:3)と言い、「患難が忍耐を生み出し、…希望を生み出すと知っているからです」(ローマ5:3-4)と言い、「この希望は失望に終わることがありません」(ローマ5:5)と断言しています。なぜなら、「聖霊によって、神の愛が…心に注がれているから」(ローマ5:5)です。主がどのようなお方であるかを思い出し、思い巡らす時、主の愛が聖霊によって心に注がれ、希望が沸き上がり、喜ぶことが出来るのです。
「いつも喜んでいる」ということは、現実的には非常に難しいことです。しかし、それは「主にあって」(ピリピ4:4)可能となるのです。主は、私たちがいつも喜びで満たされていることを望んでおられます。いつも主にあって喜びましょう。
Filed under: 伊藤正登牧師