ローマ1:14-16
24.9.15.
福音宣教は「エルサレム」から始まり、「ユダヤとサマリヤの全土」、さらに「地の果て」すなわち全世界に広まった(使1:8)。その福音宣教に大きく貢献したのがパウロ。パウロはどのような姿勢で宣教したのか。
1.福音宣教への情熱を持つ
パウロは、福音を宣べ伝えることに情熱を持っていた。パウロは「私としては…ぜひ福音を伝えたいのです」(ロマ1:15)言っている。しかし、パウロは、福音宣教が好きで、自分のしたいことだから、「ぜひ福音を伝えたいのです」と言っているのではない。前節の14節で、パウロは福音宣教を「返さなければならない負債」と言っている。この「負債」という言葉は、他の訳の聖書では「果たすべき責任」、「義務」と訳している。パウロは、福音宣教を「果たすべき責任」、「義務」と言っている。福音宣教はどうしてもやらなければならない責任、義務であった(Ⅰコリ9:16)。
なぜ、パウロは、これほどまでに福音宣教に情熱を持っていたのか。それは、単にイエスの命令だからという理由だけではない。(※イエスの大宣教命令⇒マタ28:19-20、マル16:15-16、ルカ24:46-48、ヨハ20:21。) パウロは、どうしても福音を宣べ伝えなければならない必要性・緊急性を感じていた。それは、イエス・キリスト以外に救いはないから(使4:12)。世の中には、人生において成功し、満足しているように見える人がいる。しかし、表面的には何の問題もなく、どんなに成功し、満足しているように見えても、神無しの人生は、本当の喜びも満足も希望もない、空しい人生。そして、最終的には、みな永遠の滅び(地獄)へと落ちてしまう。しかし、自分の罪を悔い改め、自分の罪のために十字架にかかって死んで、よみがえったイエス・キリストを信じるなら、神と共に永遠に生きることが出来る。そこに、本当の喜び、満足、希望がある。全ての人が、この福音(良い知らせ)を知らされることが必要。
パウロは「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」(ロマ1:16)と言っている。福音を必要とし、救われることを待ち望んでいる人々が大勢いる。それゆえ、パウロは、福音宣教に対して情熱を持った。
2.失われた救いを追い求める
パウロは、当時の世界の中心地であるローマにも教会があるということを聞いて、ぜひローマに行って、福音を宣べ伝えたいと願った(ロマ1:15)。「ローマにいるあなたがた」とは、直接的にはローマにいるクリスチャンたちだが、それは、彼らに福音について正しく理解してもらうため。しかし、彼らだけではなく、未信者たちのことも含むと考えられる。
パウロは、コリントに来る前に、イルリコまで行って福音を宣べ伝えた(ロマ15:19)。さらにパウロにはローマからイスパニヤ(スペイン)へ行く大きな計画もあった(ロマ15:23)。今のような交通機関が発達していない時代、時間と労力をかけて、パウロは実際に福音を宣べ伝えるために出て行こうとしていた。
今日、大宣教命令を任意(オプション)と認識しているクリスチャンたちが増えている。この大宣教命令に対する意識の低下が、宣教の前進を阻む最大の障害と言われている。これは、この時代のクリスチャンたちの個人主義的傾向の現れであると言われている。クリスチャンたちが、自分の幸福を最大の関心事とし、それだけを求めるなら、神の御心と全く正反対の思いである。たった一人の救いのためであっても、福音宣教に出て行くことは、主の御心(ルカ15:4)。イエスは「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)と言われた。パウロは、この「失われた人を捜して救う」という主の心を行動で現していた。
今日も、人々は、キリストの救いを必要とし、福音が聞かされることを待っている。私たちも、パウロのように、人々をイエス・キリストの救いへと導く福音の力を信じ、福音宣教に対する情熱を持ち、福音宣教のために共に立ち上がり、出て行こう。
Filed under: 伊藤正登牧師