17.12.10.

どんな時にも御霊によって祈る

エペソ6:18

神が私たちに用意しておられる第7の霊的な武具は、「祈り」です。

1.霊的な武器としての祈り

祈りも「戦いの武器」であり、敵の「要塞をも破るほどに力のあるものです」。Ⅱコリント10:4
出エジプト17章。イスラエル人は、アマレク人と戦うこととなりました。
その際、モーセは丘の上で、手を上げてイスラエルのために祈っていました。
すると、モーセが手を上げて祈っている間、戦いはイスラエルに優勢になりました。
しかし、疲れて祈りの手を下ろしてしまうと、アマレクが優勢になりました。
そこで、アロンとフルは、モーセを石の上に腰かけさせ、
両側からモーセの手を支えました。モーセの手は日没まで、しっかりそのままでした。
その結果、イスラエルは、アマレクを打ち破ることが出来たのです。
使徒12:1-17。ペテロは捕らえられ、牢に入れられ、
翌日、処刑されることになってしまいました。
ペテロは、鎖で両手をつながれ、「四人一組の兵士四組」
すなわち、16人の兵士によって厳重に監視され、逃げることは不可能なことでした。
ペテロは、絶望的な状況に置かれていて、ペテロを救い出すことは不可能でした。
そのような状況の中で、教会がしたことは、祈ることだけでした。
と言うよりも、そのような状況の中で、教会は、祈ることが出来たのです。
人間的に考えるなら、祈っても無駄なように思えるかもしれませんが、
「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」(使徒12:5)のです。
そして、神は、その祈り答え、不思議な方法でペテロを救い出して下さいました。
御使いが現れ、鎖を解き、牢の扉を次々に開けて、ペテロを牢の外に連れ出したのです。
祈りは、何もしていないように見えますし、無駄なように思われますが、
実は大きな力を発揮するものなのです。ヤコブ5:16
私たちは、この「祈りの力」を信じなければなりません。へブル11:6Ⅰヨハネ5:14-15

2.御霊によって祈る

パウロは、「どんなときにも御霊によって祈りなさい」と言っています。
「御霊によって」という言葉は、新共同訳聖書では、「“霊”に助けられて」と訳しています。
祈っている時に、どう祈ったらよいのか分からず、言葉の限界を感じることがあります。
そのような時、聖霊が私たちの祈りを助け導いて下さるのです。ローマ8:26-27
聖霊は、私たちに祈る力を与え、私たちの祈りを導いて下さいます。
「御霊によって」祈るということは、具体的には「異言」で祈ることであると言えます。
パウロは、「霊において祈る」ことを「異言で祈る」こととしています。Ⅰコリント14:14-15
リビングバイブルでは、さらに具体的に書かれています。
「では、どうすればよいのでしょう。私は二通りのことをします。
異言で祈り、また、だれにでもわかる普通のことばでも祈るのです。
異言で賛美し、また、自分にもわかるように、普通のことばでも賛美するのです。」
「異言」によって、私たちの知性を通さずに(Ⅰコリント14:14)、
私たちの霊が神に直接語ることが出来るようになるのです。Ⅰコリント14:2
どのような言葉で祈ったらよいのか分からない時、
私たちの心にある思いを「異言」によって、祈ることが出来ます。
聖霊は、私たちの心の奥深い部分の思いを執り成して下さるお方です。
「異言」を用いて「御霊によって」祈る時、「どんなときにも」祈ることが出来るのです。

3.全ての聖徒のために忍耐をもって祈る

「どんなときにも御霊によって祈り」続けるためには、「絶えず目をさましていて、
すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし」、祈ることが大切です。
つまり、他のクリスチャン、兄弟姉妹のために祈りなさいと教えているのです。
「何を祈ったら良いの分かりません」、「なかなか祈り続けられません」と言う人がいます。
自分のためだけ祈っていたら、すぐに祈ることがなくなります。
他のクリスチャン、兄弟姉妹にも目を向け、彼らのために祈りましょう。
祈ることは沢山あります。病気の人、試練の中にある人、
信仰を持ち始めたばかりの人、霊的に弱っている人、何かの必要のある人など…。
何の問題もないように見える人、信仰的霊的に強いと思える人でも、
誰もが祈りを必要としているのです。
パウロでさえも祈りを必要としました。Cf.ローマ15:30エペソ6:19-20
聖書の原則は、「与えなさい、そうすれば、自分も与えられます」(ルカ6:38)です。
他の人のために祈ることによって、自分自身が信仰的・霊的に恵まれ、強められるのです。
なぜなら、他の人のために祈れば祈るほど、
より神に近づき、神と過ごす時間を持つことが出来るからです。
ですから、他の人のために祈ることは、私たちの信仰が強められる秘訣と言えます。
祈っても、直ぐにその答えが与えられるわけではありません。
祈りの答えは、私たちにとって都合の良い時にではなく、神の御心の時に得られます。
ですから、「絶えず目をさまし」すなわち「注意を怠ることなく、気を緩めることなく」、
「忍耐の限りを尽くし」、祈り続けることが必要です。

聖書には、「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」(コロサイ4:2)、
「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサロニケ5:17)とあります。Cf.ローマ12:12ルカ11:9-10、18:1
私たちは、気を付けていないと、祈りが疎かになってしまうものです。
祈りたくなる時を待つのではなく、強い意志をもって「祈りの時」を勝ち取るのです。
また日々しなくてはならないことが多くあり、それらに追われて忙しく生活しています。
目の前のことを優先し、祈りが疎かになってしまうこともあります。
悪魔は、「今は祈っている場合じゃない」、「後で祈ろう」とささやきかけます。
しかし、神から離れ、神の助けと力なしに、何も成し遂げることは出来ません。
全てが順調で何の問題もない時でも、祈る気になれない時でも、忙しい時でも、
「どんなときにも御霊によって」、「絶えず目をさまして」、「忍耐の限りを尽くし」祈りましょう。

Filed under: 主の武具伊藤正登牧師