マタイ21:28-32

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信仰がなければ神に喜ばれないと言われていますが、神に喜ばれる信仰とはどんなものでしょうか。神に喜ばれる人とはどのような人たちなのでしょうか。イエスの話された、ふたりの息子のたとえから学びましょう。

翻訳上の問題点

イエスは二人の息子のたとえを話されました。新改訳聖書第三版では、兄が「行きます」と言ったが行かなかった。そして、弟は「行きたくない」と言ったが、後で悔いて行ったとなっています。しかし、新改訳聖書2017年版、および現在の世界のすべての最新版の翻訳では、第一の者(兄)が「行きたくない」と言ったが、後から悔いて行った。そして第二の者(弟)は「行きます」と言って行かなかったとなっています。

これは新改訳聖書第三版の新約聖書が、ネストレ第24版というギリシャ語から翻訳しているためです。新改訳聖書2017年版の新約聖書は、ネストレ・アーラント第28版という、最新の、つまり、もっと真実に近いギリシャ語訳から翻訳しています。

つまり、新約聖書については、2017年版と第三版とでは、大きな違いがあるのです。

1.主を信じる者は義の道を歩む

義の道を歩む

父が二人の息子に「ぶどう園に行って働いてくれ」と頼みました。最初の者は父親に「行きたくない」と言いましたが、その後、思い直して畑に行きました。第二の者は「行きます」と言ったが、行きませんでした。父の御心を行った者、父が喜んだ者は、最初の息子の方だったという話です。

この御言葉の背景にあるのは、祭司長、民の長老たち、律法学者・パリサイ人たちが、義の道を説いたバプテスマのヨハネを信じなかったということと、逆に、罪人と呼ばれていた取税人や遊女たちは信じたということです(マタイ21:23-37、32)。

ヨハネの教えた義の道(マタイ21:32)とは、罪を告白し、悔い改めることで義とされること(マルコ1:4-8)、また、誠実に歩み、持ち物を分け与えるような良い行いに励むこと(ルカ3:8-14)、そして救い主であるイエスとともに生きることです(マルコ1:3、7-8、ルカ3:16)。つまり、罪を悔い改め、イエスを信じて誠実を愛し、良い行いに励み、主とともに生きることです(ミカ6:8、エペソ2:10)。ヨハネが義の道を説き、それを聞いた者たちがヨハネを信じるということは、その義の道を歩むということでもあるのです。

信仰は行動に現れる

イエスは、「信じる」ということを、父の願ったとおりに、「ぶどう園に行って働く」という例えで表されました。兄は「行きたくない」と言ったことを悔いて、畑に行きました。一方、弟は「行きます」と言ったのに行きませんでした。「行きたい」という気持ちだけでは不十分なのです。

御言葉に従う行動を通して、自分の信仰を表明できます(ヤコブ2:17-26)。同様に、従わないという行動を通して、自分が不信仰であることを表明しているのです。口先だけの信仰、表面的な信仰というのは神に喜ばれません。神の恵みを豊かに受けるためには、御言葉に聞き従うことが大切です(Ⅰサムエル15:22)。

私たちは単に名前だけのクリスチャンになればよいというのではありません。信仰は必ず行動に現れるものなのです。

行うことで祝福される

神の多くの祝福は、信じるだけでなく行うことで与えられるものです(ヤコブ1:25)。つまり、「信じる」とは信仰に「行い」も伴っているのです。

たとえば、神の国を第一に求めていくことが大事だと信じても、実際に神の国のために何もしなければ、御言葉に伴う祝福は与えられません。舟の右側に網を下せばたくさんの魚を捕ることができると語られて、その御言葉を信じても、何もしなければ何もおきません。

兄息子が「行きたくありません」と言ったのは、本心でしょう。しかし、父を悲しませていることを悔いて、父の言葉に従ったのでしょう。ですから、私たちはたとえ自分にとって辛いことでも、あるいは自分の計画とは違うものでも、行動に現すことの大切さをイエスは教えています。主イエスも十字架にかかられる直前、ゲッセマネの祈りで、「私の願いではなく、御心の通りにしてください」と祈られました(ルカ22:42)。

2.主のために働く

父は息子たちに「ぶどう園に行って働いてくれ」と言っています。このたとえを別の側面から考えると、父は神を意味し、ぶどう園はイスラエルであり、神の国民を意味しています(詩篇80:14、105:33、イザヤ5:4)。つまり、神は私たちに神の国のために働いてほしいと願っておられるのです。

この世界には救われるべき人々が大勢います。まだ救われていない人たちが救われて、神の国の国民となるように、私たちも働きましょう。そのために、まず祈ることです。祈り会に参加しましょう。そして伝道することです。とくに、教会で行う伝道の働きに参加しましょう。また、神の国民であるクリスチャン同士が互いに仕え合っていくことも大切です。

まとめ

私たちはイエスを信じて、単に名ばかりのクリスチャンになるのではなく、良い行いに励み、主とともに誠実に歩むことが大切です。御言葉を聞き、聞くだけで恵まれたように感じますが、御言葉を実行する者になりましょう。御言葉を聞いて行う者は、岩の上の家のように、どのような試練が来ても、ゆるぎないものとなるのです(マタイ7:24-27)。ぶどう園に行って働いた兄のように、私たちも神の国のために働きましょう。

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