19.9.8.

イエスは、よみがえられた後、弟子たちに「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハ20:21)と言って、彼らに「息を吹きかけて」、「聖霊を受けなさい」命じられました(ヨハ20:22)。イエスは、私たちを「聖霊」で満たし、「力」を与え、「証人」として「遣わし」たいと願っておられます(使1:8)。

1.神の国の力の現れ

イエスは、「カペナウム」に行かれ、「安息日ごとに、人々を教えられ」ました(31)。イエスの教えには「権威」があったので、人々は「その教えに驚」きました(32)。イエスが他の律法学者たちのように、単に律法の様々な解釈を説明するのではなく、真直ぐに神の御心を語ったからです。

イエスは、素晴らしい教えを語っただけではなく、素晴らしい御業もなされました。ある安息日に、「会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいて」(33)いました。イエスがその悪霊に「黙れ。その人から出て行け」と言うと、悪霊は出て行きました(35)。イエスは、悪霊に対しても権威がありました。その後、「会堂を出て、シモンの家に入られ」(38)ると、「シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんで」(38)いましたが、イエスが「熱をしかりつけられると、熱がひき」(39)ました。イエスは、病に対しても権威がありました。「日が暮れると」(40)、すなわち安息日が明けると、人々はイエスの元に「いろいろな病気で弱っている者」(40)を連れて来ました。イエスは、「ひとりひとりに手を置いて、いやされ」(40)、「悪霊ども」(41)も追い出しました。

これらは、イエスによって「神の国」が到来したことを示すものでした。「神の国」とは「神の支配」のことです。本来、この世界は、神が造り、神が支配される世界でした。そこは祝福された世界であり、平和と喜びがあり、何の災いも病もありませんでした。しかし、人間がサタンの言葉に従い、神の言葉に背き、罪を犯した結果、この世界はサタンの支配の下に置かれることとなり、呪われたものとなってしまいました。すなわち、この世界に、災いや病、苦しみや悲しみが入って来たのです。イエスは、サタンの支配の下にあった世界に、神の支配すなわち「神の国」を打ち立てるために来られたのです。イエスは、サタンを打ち破り、「神の国」の祝福を取り戻すために来られたのです。「神の国」の到来は、イエスの十字架での死と復活によって、確実なものとなりますが、その前から、イエスは「神の国」の祝福をもたらす御業を始めておられたのです。

2.イエスの使命

次の日の「朝」(42)、「群衆」(42)はイエスを「探し回って」(42)やって来ました。人々がイエスの元にやって来たのは、「イエスが自分たちから離れて行かないように引き止め」(42)るためでした。彼らは、イエスがいつも一緒にいて下さったら、何の心配もなく、安心して、幸せに暮らせると思ったのでしょう。イエスが、いつまでも共にいてくださったなら、どんなに安心で心強いことでしょう。5千人の給食の奇跡の後も、人々はイエスを自分たちの王としようとしました(ヨハ6:15)。それは、イエスが自分たちの王となってくれたら、パンに困ることはないと考えたからです。彼らは、イエスを求めていたのではなく、パン(自分の利益)を求めていたのです。

しかし、イエスは、自分の使命を見失いませんでした。イエスは、常に自分の使命に留まり、自分の使命に生きたのです。イエスの使命とは、他の町々にも行って「神の国の福音」を宣べ伝えることでした(43)。イエスは、弟子たちに次のようにも言われました。「あなたがたは、「刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある」と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」(ヨハ4:35)。この「畑」とは、まだイエスを知らない世の人々、まだ救われていない人々のことです。しかし、その「畑」は、「色づいて、刈り入れるばかりになって」いるのです。すなわち、人々は、イエスの話を聞いて、救われようとしているということです。また、イエスは「収穫は多い」(マタ9:37)と、救われるべき人々が大勢いると言われました。主は、パウロにも「この町には、わたしの民がたくさんいるから」(使18:10)と語りました。イエスを信じて救われる人々が大勢待っているのです。

私たちの考え方や生き方が内向きになっていないでしょうか。自分の必要、自分の問題、自分の生活、自分の幸せが優先事項となっていませんか。いつの間にか自分のことばかり求めてはいないでしょうか。自分の必要が満たされることだけや、自分が恵まれることだけを求め、いつの間にかイエスを独り占めしてしまってはいないでしょうか。もしそうであるなら、イエスを引き留めようとした群衆と同じです。私たちには、今、「目を上げる」ことが必要なのです。すなわち、自分の目を自分の必要や問題、この世のことから切り離すのです。そして、収穫の「畑」に目を向けるのです。私たちもイエスと同じ使命のために生きるのです。

 

私たちがこの地上に置かれ、生かされている目的は、私たちもイエスと同じ使命のために生きるためです。すなわち、他の人々に「神の国の福音」を伝えることです(マタ28:19マコ16:15)。イエスは、「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから」と言われました。私たちも、イエスと同じ使命をもって、人々に「神の国の福音」を伝えましょう。もっと、宣教の拡大を目指していきましょう。私たちが住んでいる地域、日本、アジア、さらに全世界へと宣教の視野を広げましょう

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