17.6.11.
ほかの町々にも福音を
ルカ4:42,43
私たちは、しばしば自分の本来の目的を忘れ、脇道にそれてしまうことがあります。
しかし、イエス様は、ご自分の果たすべき務めからぶれることなく歩まれました。
1.イエス様の力と愛
イエス様は、カペナウムをガリラヤ地方の伝道の拠点としておられ、
このカペナウムでも様々な奇跡を起こされました。ルカ4:31-41。
ある安息日に、「会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいて」(33)いました。
イエス様は、その悪霊に対して、「黙れ。その人から出て行け」(35)と言われました。
「するとその悪霊は人々の真ん中で、その人を投げ倒して出て行った」(35)のです。
イエス様は、「悪霊につかれた人」を解放して下さいました。
その後、イエス様は、「会堂を出て、シモンの家に入られ」(38)ました。
すると、「シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんで」(38)いました。
イエス様が「その枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、
彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた」(39)のです。
そして、その日、「日が暮れると」(40)、すなわち安息日が明けると、
人々は、「いろいろな病気で弱っている者をかかえ」(40)、イエス様の元に連れて来ました。
イエス様は、その「ひとりひとりに手を置いて、いやされ」(40)ました。
また、「悪霊ども」(41)をも追い出されました。
イエス様は、一人一人の必要に答え、その必要を満たされたのです。
このように、イエス様は、人々に仕え、人々のために力ある業をなされましたが、
その動機、原動力となっていたものは、人々に対する「憐みの心」でした。Cf.マルコ6:34。
イエス様は、「憐みの心」をもって、人々を教え、病人を癒し、
人々を悪霊から解放し、死人さえもよみがえらされたのです。
2.イエス様の使命
安息日の次の日の「朝になって」(42)、
「群衆」(42)はイエス様を「探し回って」(42)イエス様の元にやって来ました。
人々は、「イエスが自分たちから離れて行かないように引き止めておこうとした」(42)のです。
彼らは、イエス様がいつも一緒にいて下さったら、
もう病気で苦しむことも、悪霊に悩まされることもなくなり、
何の心配もなく、安心して、幸せに暮らせると思ったのでしょう。
結局、彼らは、イエス様を自分たちのために引き止めておきたかったのです。
しかし、イエス様は、自分の使命を見失いませんでした。
イエス様の使命とは、他の町々にも行って、福音を宣べ伝えることでした。(43)
私たちもイエス様を自分のところだけに止めようとすることはないでしょうか。
すなわち、自分の必要が満たされることだけや、自分が恵まれることだけを求め、
いつの間にかイエス様を独り占めしてしまってはいないでしょうか。
私たちがこの地上に置かれているのは、イエス様の使命のために生きるためです。
すなわち、他の人々に福音を宣べ伝えるということです。マタイ28:19。マルコ16:15。
そして、「聖霊」が私たちの上に「臨まれ」、「聖霊」に満たされる目的は、
私たちがイエス様の「証人」になるための「力を受け」るためでした。使徒1:8。
私たちが「聖霊」に満たされ、「聖霊」の「力を受け」たのは、「エルサレム」、
「ユダヤとサマリヤの全土」、「地の果てにまで」、イエス様を証しするためなのです。
私たちは、もっと、宣教の拡大を目指していかなければならないのではないでしょうか。
3.父なる神様との交わりの祈り
なぜ、イエス様は、ご自分に与えられた使命からぶれることがなかったのでしょう。
それは、祈りがあったからです。
42節に「朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた」とあります。
イエス様は、祈るため、父なる神様と交わりを持つために、「寂しい所」に行かれたのです。
イエス様は、そのような祈りの時をよく持っておられました。
マルコ1:35。さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、
寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
「祈っておられた」という言葉は、文法的には、過去の習慣、継続、反復を意味しています。
ですから、イエス様は、祈りを習慣とし、継続し、反復していたのです。ルカ5:16。
イエス様は、欲しい物、不足する物があったから、それを祈り求めたのではありません。
常に父なる神様の御心を確認し、ご自分に与えられた使命に生きるためであったのです。
ですから、イエス様が弟子たちに教えられた祈り(主の祈り)の前半は、
「御名があがめられますように。御国が来ますように。
みこころが天で行われるように地でも行われますように」(マタイ6:9,10)となっています。
イエス様は、常に、父なる神様の御心を求めて祈っておられました。
イエス様は、人気のない、静かな場所で、父なる神様との交わりの時を持たれました。
それは、父なる神様の御心を確認し、自分に与えられた使命に生きるためでした。
祈りは、イエス様が福音を宣べ伝える働きのための原動力となるものだったのです。
私たちも、父なる神様との親しい交わりを持てば持つほど、
聖霊に満たされれば満たされるほど、
父なる神様の御心である福音宣教に励む者となれるのです。
父なる神様の御心は、「全ての人が救われること」です。Ⅰテモテ2:4。Ⅰペテロ3:9。
イエス様がこの世界に来られたのは、父なる神様の御心を行うためでした。ヨハネ6:38。
私たちが本当に、父なる神様の御心を求め、行おうとするならば、
まだ救われていない人々を救いに導くという働きに携わらなくてはなりません。
イエス様は、「収穫は多い」、「働き手が少ない」(マタイ9:37)と言われました。
これに応答して、一人一人が「働き手」として立ち上がることが求められているのです。
イエス様は、「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。
わたしは、そのために遣わされたのですから」(43)と語っておられます。
収穫の「働き手」として立ち上がり、「ほかの町々にも」福音を語ろうではりませんか。
Filed under: 伊藤正登牧師