
20.3.8.
イエスが「ろばの子」に乗ってエルサレムに入られたことは、4福音書に記されています(マタ21:1-11、マコ11:1-11、ルカ19:28-38、ヨハ12:12-19)。この出来事で重要なことは、「ろばの子」ではなく、イエスご自身です。イエスが「ろばの子」に乗ってエルサレムに入城したということは、イエスがどのようなお方であるかということを示す出来事だったのです。
1.イエスは預言された王(メシヤ)として来られた
イエスは、2人の弟子に「向こうの村」に「ろばの子」がいるので、「それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい」と言われました(2)。この時、弟子たちは、イエスがなぜ「ろばの子」を連れて来るように言われたのか理解していませんでした。その意味が本当に理解出来るようになったのは、イエスが十字架にかかり、死んで、三日目に復活し、天に上られ、弟子たちが聖霊を受けた後でした(ヨハ12:16)。その時、このことが「イエスについて書かれたこと」であったことが分かったのです。
「イエスについて書かれたこと」とは、旧約聖書の預言のことです。ですから、マタイも、「これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである」(4)と言っています。その預言とは、ゼカ9:9です。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」 「王」とは「メシヤ(キリスト)」のことです。これはメシヤ(キリスト)到来の預言でした。すなわち、「王」、「メシヤ(キリスト)」が「子ろば」に乗って、「エルサレム」に来るという預言です。イエスは、ご自分が旧約聖書で預言されているメシヤ(キリスト)であることを示すために、「子ろば」に乗って、「エルサレム」に入られたのです。イエスが「子ろば」に乗って、「エルサレム」に入ったということは、イエスが預言されていた「王」、「メシヤ(キリスト)」であるということなのです。イエスは、預言された王として来られたのです。
2.イエスはへりくだった王として来られた
ソロモンが王として即位すると、エジプトから大量の馬が輸入されました。それ以来、王や貴族は、ろばには乗らなくなり、馬に乗るようになりました。そして、ろばは、庶民の乗る家畜、荷物を運ぶ家畜になってしまいました。ろばは、卑しい存在、価値の低い存在、取るに足りない存在、劣った存在となりました。イエスが乗ったのは、「荷物を運ぶろばの子」(5)であり、「まだだれも乗ったことのない、ろばの子」(マコ11:2)であり、さらに卑しいもの、価値のないもの、取るに足りないもの、劣ったものでした。普通は、王は、そのような「ろばの子」には乗りません。立派な馬に乗ります。そのような「ろばの子」に乗るためには、へりくだり、自分自身をも卑しくしなければ出来ません。
ゼカリヤは、メシヤ(キリスト)が「柔和」であると言っていますが、この「柔和」という言葉も、ヘブル語で「卑しい、へりくだった、抑圧された奴隷状態にあること」という意味です。それは、自分から「神のしもべ」となり、神に完全に服従するということです。イエスが「ろばの子」に乗って、「エルサレム」に入られたということは、イエスがへりくだり、卑しくなり、しもべとなった「王」であるということだったのです。それは、私たちを救うために、これから父なる神の御心に従って、十字架にかかって死のうとしているメシヤとして相応しい姿でした(ピリ2:6-8)。
3.イエスは平和の王として来られた
当時、ユダヤ人たちは、イスラエルをローマの支配から武力によって解放し、再びイスラエル王国を建ててくれるメシヤを待ち望んでいました。しかし、イエスは、そのような政治的・軍事的な王として来られたのではありません。イエスは、私たちに真の平和をもたらす「平和の王」として来られたのです(ゼカ9:10)。イエスが馬ではなく、「ろばの子」に乗って「エルサレム」に入られたということは、イエスが「戦いの王」ではなく、「平和の王」として来られたということを示しています。
イエスが私たちに与えて下さる「平和」は、3つあります。
① 神との平和…神との正しい関係、良い関係。
② 心の平和…神から来る心の平和、どのような状況においても得られる平安。
③ 人との平和…神による平和、人間関係における平和。
「神との平和」は「心の平和」と「人との平和」の土台となるものです。「神との平和」がなければ、何をしても「心の平和」も「人との平和」もありません。今日、多くの人々が「心の平和」を得るために様々な試みをしています。しかし、この世による平和は一時的なものに過ぎません。私たちにとって最もなくてはならないものは「神との平和」です。「神との平和」があれば「心の平和」も「人との平和」も得られるのです(ヨブ22:21)。
イエスは、私たち人間の罪を処分し、「神との平和」を持つことが出来るために、私たちの罪を身代わりに負って、十字架で死んで下さいました。イエスの血は私たちの罪が赦されるために流されたものでした(マタ26:28)。そして、神との和解と平和をもたらして下さったのです(コロ1:19-20)。イエスを信じる時に罪は赦され(使10:43)、さらに義と認められます(ロマ10:10)。そして、信仰によって義と認められた者は、「神との平和」が与えられます(ロマ5:1)。
群衆は、「ホサナ」(今、お救い下さい)と叫んで、イエスを大歓迎しました。しかし、群衆は、イエスに対して間違った期待をしていました。私たちは、私たちを救うためにへりくだり、卑しくなり、しもべとなって、父なる神の御心に従い、私たちの救いのための十字架にかかって、死んで下さり、神との平和を与えて下さる王イエスに心からの賛美をささげましょう。
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