18.2.4.

アドナイ・イルエ : 備えたもう主

創世22:14

聖書の中で、神は「エル」(El)、「エロヒム」(Elohim)と呼ばれていますが、
他にも、「アドナイ」(Adonai)という呼び名があります。
「アドナイ」とは、「主」という意味です。
神は、モーセにご自身の名を「わたしはある」であると告げられました。出エ3:14-15
それは、ヘブル語で「ヤハウェ」(YHWH)というと言われています。
しかし、十戒の第三戒に「主の御名を、みだりに唱えてはならない」(出エ20:7)とあり、
イスラエルの人々は、「主の御名」をむやみに唱えてしまい、
神を冒涜してしまうことを避けるため、直接「ヤハウェ」(YHWH)とは呼ばず、
「アドナイ」と置き換えて呼ぶようになりました。
この「アドナイ」という言葉も、他の言葉と組み合わされて用いられています。
それらは、神がどのようなお方であるのか、神のご性質を示すものとなっています。

1.イサクの代わりに備えられた羊

神は、アブラハムに数えられないほど多くの子孫を与えると約束されましたが、
その約束が実現したのは、25年後でした。
25年に渡る数々の試練の後、ようやく跡継ぎが与えられ、生活も落ち着いていました。
そのような時、神はアブラハムに「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、
モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、
全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」(2)と語られたのです。
その言葉は、自分の耳を疑うような、信じられない、受け入れられない内容でした。
イサクは、アブラハムが年老いてからやっと与えられた約束の子です。
かけがえのない最愛の一人息子です。アブラハムにとって、イサクは自分の全てでした。
いつの間にか、アブラハムは、神よりもイサクを愛するようになっていたかもしれません。
そこで、神は、アブラハムがどれだけ神を愛し、信じ、従うかを試されたのです。
この神の命令に対して、「翌朝早く、アブラハムは…息子イサクとをいっしょに連れて…
神がお告げになった場所へ出かけて行った」(3)のでした。
アブラハムは、何の疑いも、躊躇もなく、直ぐに神の御声に従いました。
反発したり、色々と言い訳を言って、従うことを先延ばしにはしませんでした。
アブラハムとイサクが旅をして「三日目に」、神が示された「モリヤ」の山が見えました。
その時、アブラハムは、同行して来た「若い者たち」に言いました。
「私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」(5)
アブラハムは、必ずイサクと共に「戻って来る」と信じていたのです。ヘブル11:19
神が指定した場所に着くと、アブラハムは「祭壇」を築きました。
そして、「たきぎを並べ」「自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた」のです。
イサクは、かなりの年齢になっていましが、父の言葉に従順に従いました。
そして、アブラハムが「手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろう」(9,10)とした時、
御使いがイサクに手を「下してはならない」と呼びかけました。
アブラハムの神に対する信仰は、本物であることが証明されたのです。12
「アブラハムが目を上げて見ると、…角をやぶにひっかけている一頭の雄羊が」(13)いました。
神は、イサクの代わりに雄羊を備えて下さった羊です。
こうして、アブラハムは、「その場所を、アドナイ・イルエと名づけた」(14)のです。

2.主は必要を備えて下さる

「アドナイ・イルエ」とは、「備えたもう主」、「主は備えて下さる」という意味です。
アブラハムは、いけにえの羊の存在を予め知っていたのではありません。
アブラハムは、神がどのように羊を用意されるか全く知りませんでした。
しかし、神が必要なものを必ず「備えてくださる」と信じていたのです。
ですから、イサクに「全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか」(7)と尋ねられ、
「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」(8)と答えました。
「備える:イルエ」とは、ヘブル語では「見ている」という意味の動詞です。
「イルエ」が神について使われる場合は、「前もって見る」となります。
つまり、「アドナイ・イルエ」は、「主は前もって見ておられる」となります。
私たちは、将来何が起るのかは分かりません。未来を見ることは出来ません。
しかし、全知全能の神は、先のことまで前もって見ておられるのです。
また、この「イルエ」は、「配慮する」という意味もあります。
神は、私たちのことを配慮して下さるお方です。
神は、私たちの人生の先の先まで前もって見ておられ、配慮して下さり、
私たちに必要なものを予め備えて下さるのです。
だから、「アドナイ・イルエ」、「主は備えて下さる」のです。
困難や問題に直面する時、将来に対して不安を持ったり、思い煩ってしまいます。
仕事のこと、経済のこと、健康のこと、家庭のこと、進路のこと、人間関係のこと等。
しかし、たとえ、この先どうなるのか見えなく、分からなくても、
神は、過去も現在も、そして将来も見ておられ、全て知っておられます。
そして、私たちのことを配慮して下さり、必要なものを備えて下さるのです。
イエス様も、次のように言われました。
マタイ6:31-33。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、
などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。
しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
大切なことは、全てご存知で、私たちのために配慮して下さり、
必要なものを備えて下さる神を信じ、信頼することです。

ローマ8:32ピリピ4:19
私たちも、信仰の父アブラハムのように、神を信じ、告白しようではありませんか。
「アドナイ・イルエ」、「神ご自身が…備えてくださるのだ。」

Filed under: 主の御名伊藤正登牧師