18.3.11.

アドナイ・ハッショフェト : 審判者なる主

士師11:27

ユダヤ人は「主の御名」をむやみに唱えて冒涜しないように(出エ20:7)、
ヤハウェ」とは呼ばず「アドナイ」()と置き換えて呼ぶようになりました。
この「アドナイ」に他の言葉が組み合わされ、神のご性質を示すものとなっています。

1.争いを避けたエフタ

エフタは、「勇士」でしたが、兄弟の中で彼だけが「遊女の子」でした(2)。
そのため、兄弟たちはエフタを家族として認めず、家から追い出してしまったのです。
それからしばらくたって、アモン人がイスラエルに戦争をしかけて」(4)きました。
エフタを追い出したギルアデの長老たちは。エフタの元に来て、助けを求めました。
彼らは、エフタに指揮官となって、一緒に戦ってほしいと頼み込んだのです。(6)
こうして、エフタは、イスラエル人を救うために、アモン人と戦うことになりました。
しかし、エフタは、すぐにはアモン人たちと戦いませんでした。
エフタは、「アモン人の王に使者たちを送って」(12)、
どうしてイスラエルと戦おうとするのか、戦争の理由を尋ねたのです。
アモン人の王は、イスラエル人がアモン人の「国を取ったからだ」(13)と答えました。
しかし、それは、アモン人たちの大きな誤解でした。
エフタは再びアモン人の王に使者たちを送って」(14)、
イスラエルはモアブの地も、アモン人の地も取らなかった」(15)と言いました。
そして、エフタは、その根拠を冷静に、丁寧に、そして誠意をもって説明しました。14-27
このように、エフタは、無用な争いを避けて、平和的に問題を解決しようとしまた。

2.怒りを治める

エフタは、感情をコントロールし、治めることの出来る人だったのです。
私たちが最も気を付け、また治めるべき感情は、「怒り」です。
怒りは誰にでもあるものですが、怒りを治めず、そのままにしておくと、
やがて心は怒りに支配され、理性的に考えられなくなり、
間違った判断をし、間違った言葉を言い、間違った行動をとってしまう危険性があります。
聖書の中でも怒りを治められず、人生を台無しにしてしまった人たちがいます。
創世4:1-8。カインは腹を立て、アベルを殺してしまいました。
そのため、カインは、一生さすらい歩かなければならなくなってしまったのです。
民数20:1-13。モーセは怒り、杖で二度も岩を打ってしまったため、
約束の地に入ることが禁じられてしまいました。
聖書は、「怒り」について、私たちに警告を与えています。箴言14:17,2915:18

どのようにしたら怒りを治めることが出来るのか、エフタに見ることが出来ます。

① 怒りにとどまらない
エフタは、自分の兄弟たちやギルアデの人々から追い出された時、「逃げて行き」(3)ました。
しかし、エフタは、怒りにとどまらず、怒りから去って行ったのです。
聖書は、「…日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」(エペソ4:26)と教えています。
それは、「悪魔に機会を与えないように」(エペソ4:27)するためです。
怒りや憎しみで私たちの人生を破壊することが敵である悪魔の策略なのです。
この悪魔の策略に巻き込まれないために、怒りが小さいうちに手放すことが必要です。
聖書は、「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、
いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい」(エペソ4:31)と教えています。
怒りを捨て去るだけではなく、「…神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、
互いに赦し合いなさい」(エペソ4:32)と教えています。

② 聞くのに早くなる
エフタは、アモン人が「戦争をしかけてきたとき」、
戦うよりも、相手の言い分を聞き、理解しようとしました。
私たちは、怒りを感じると、一方的に相手を責めてしまうものです。
しかし、相手を責める前に、「聞く」ことが必要です。聖書は言っています。
ヤコブ1:19。…だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
その人がどうしてそのような行動を取るのか理解しようとするのです。
相手のことがもっとよく分かったら、怒らずに済んだかもしれません。
また、怒っても小さなもので済んだり、直ぐに治まるものなのかもしれません。

③ 裁きを主に委ねる
エフタは、自分たちには何も不正がないことを主張し、
審判者である主」(27)に正しい裁きを委ねました。
審判者である主」は、ヘブル語で「アドナイ・ハッショフェト」です。
私たちは、自分の経験や考えや感情に従って、自分を基準にして、人を裁いてしまいます。
そこには、偏りが生じてしまい、公平な正しい裁きは出来ません。
しかし神は、全てをご存知であり、正しく、公平に裁かれるお方です。Cf.ローマ2:6,11
軽々しく、他の人を裁くようなことがあってはなりません。Cf.マタイ7:1-5
聖書は、私たちに決して自分で裁いたり、復讐しようとせずに、
神の裁きに委ねるようにと教えています。ローマ12:19
私たちも不当な苦しみが与えられたり、身に覚えのないことを言われたりするでしょう。
しかし、その怒り、不満を、神の裁きに委ねるのです。
エフタは、「(神は)開いてくださった、(神は)開いてくださるように」の意味です。
エフタは、神が全てをご存知で、彼の祈りに答え、公平に裁いて下さると信じたのです。

エフタは「勇士」でしたが、彼は単に「勇気のある強い人」というだけではなく、
自分の怒りの感情を治めることの出来る人でした。
エフタは、本当の意味での「勇士」であったのです。箴16:32
私たちも、怒りを治められる「勇士」にならせていただきましょう。
自分で人を裁いたり、復讐せず、「審判者である主」に全てを委ねていきましょう。
私たちの神は、「審判者である主」(アドナイ・ハッショフェト)です。

Filed under: 主の御名伊藤正登牧師