2019.05.26

私たちの信仰生活はレースにたとえられています。イエス様を信じて救われることがゴールではなく、洗礼を受けることがゴールでもありません。その後もイエス様を信じ続け、最後まで走り続けなければならないのです。この信仰のレースを走りぬくにはどうしたらよいのでしょうか。主からみ言葉を聞いてまいりましょう。

1.励ましあって最後まで走り切ろう

聖書は、賞を受けられるように走るようにと教えています(Ⅰコリント9:24Ⅱテモテ2:5)。ただ走ればよいのではなく、勝利者とならなければなりません。

天路歴程という物語ではクリスチャンが滅びの町から旅立ち、イエス様を信じ、信仰の戦いを戦い、最後に神の国に入る勝利の日までの旅路が描かれています。

勝利者となるということは、信仰を完成させることであり、救いを達成させることです(ピリピ2:12)。永遠のいのちを獲得することです(Ⅰテモテ6:12)。それは単に知識を増し加えることでもなく、奇跡を起こすほどの強い信仰者になることでもなく、生涯をかけて信仰の道を走り切ることであり、信仰を守り通すことです。イエス様が父から与えられた十字架の道を最後まで全うしたように、私たちも神様から与えられた信仰の道を全うすることなのです。

私たちはレースを走るとき、孤独な闘いのように思えても、信仰の先輩方や兄弟姉妹たちからの助けと励ましを受けています。ともに励まし合いながら、信仰の道を歩み続けましょう(ヘブル12:1)。

2.重荷と罪を捨てて走りぬこう

このレースをする者にとって、いっさいの重荷とまとわりつく罪を捨てることが大事です。持ち物は減らし、服装も身軽にすることで良いランナーになれます。私たちも信仰のレースを走るために邪魔になるいっさいのものを捨てて走ることが求められています。

いっさいの重荷とまつわりつく罪というのは、信仰の妨げになるものであり、種まきのたとえでは、エゴ、この世の心遣い、富の惑わしに対する弱さなどがあり(マタイ13章)、世を愛する心(Ⅰヨハネ2:15)、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢(Ⅰヨハネ2:16)もそうです。

3.信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離してはならない

レースを走る者にとって、ゴールから目を離さないことが大切です。「目を離さない」はギリシャ語のアフォラオー「遠くから望む、離れたところから見る」という言葉が使われています。目標は遠くて見えなくても、心の目をゴールから離してはなりません。ゴールに向かうことを常に意識していれば、横道にそれることはありません。イエス様も十字架の向こうには勝利の栄冠があり、神の御座の右に着座することを期待し、喜んでレースを走りぬきました。

私たちのゴールは信仰の完成であり、イエス様の御丈にまで成長することです(エペソ4:13Ⅱコリント3:18)。生涯をかけて信仰のレースを走りぬいたとき、イエス様と会って、勝利の栄冠を受けるのです(Ⅱテモテ4:7-8)。私たちも勝利の栄冠を目指しましょう。

レースを走り続けることは苦しいことです。のどが渇き、疲れます。しかし、イエス様を見続けることで、イエス様が私たちの身代わりに苦しまれたことを覚え、私たちは元気を失うことがなく、疲れ果てることがありません(へブル12:3)。イエス様が十字架の道を全うされたことを模範として、私たちも目の前のレースを走り続けましょう。

 

私たちももう一度初心に帰り、イエス様から目を離さないで、重荷と罪を投げ捨て、信仰の完成を目指し、レースを走り続けようではありませんか。

 

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