17.06.25
イエス様はまことのぶどうの木
ヨハネ15:1-8
世の中で「成功」している人々を見ていると、うらやましく感じたりすることはないでしょうか。私たちの信仰、そしてイエス様と共に歩み、実を実らせて行くことが、どれほど素晴らしいかを学びましょう。
1.イエス様を信じると実が実る
イエス様はご自身を「ぶどうの木」、父なる神様は「農夫」、そして私たちクリスチャンをその「枝」であるとたとえています。枝はぶどうの木の幹につながることで実を実らせることができます。
私たちがイエス様を信じると、私たちの罪は赦され、イエス様が聖霊として私たちの心に住まわれ、私たちは変えられていきます(Ⅱコリント3:16-18)。どのような悪人であっても、イエス様を信じると愛と喜びに満ち、心に平安があり、寛容で親切な人になってゆくのです。なぜなら、聖霊が実を実らせておられるからです(ガラテヤ5:22-23)。
また、私たちは救われて変えられるだけでなく、神様によって用意された良い行いが与えられています(エペソ2:10)。私たちがイエス様の御心に従って、日々主の働きである良い行いに取り組んでゆくことで、人々が救われてゆくのです(マタイ5:16)。
そのようにして救われた魂は、神様に喜ばれる実なのです(ヨハネ4:36、15:16、Ⅰコリント9:1)。
2.イエス様から離れたら実が実らない
枝は幹から離れたら「何もできない」とありますが、原語では、ΠОIEΩ(ポイエオー)ОYΔEN(オウデン)「何一つ作り出せない(produce none)」、「何一つ完成させることができない(accomplish none)」という意味です。何かをし始めることはできても完成させることができず、実を実らせることができないのです。
イエス様を信じないで自己中心に生きる人たちが、信じる人たちより豊かに、華々しく暮らしているように見えるかもしれません。しかし、彼らはイエス様という幹につながっているのではなく、異なる木の幹につながっているのです。彼らの豊かさや華々しさは一時的であり、自己満足でしかありません。
また、イエス様と共に歩むことは、苦しいときもあります。ノアが神様のみことばによって山の上に箱舟を作ったとき、相当馬鹿にされたことでしょう。しかしその後に起こる洪水により、それが正しかったと証明されました(創世記6-8章)。いつかイエス様を信じて歩んできてよかったと思える日が来るのです。神様は、私たちがどんな困難が来てもイエス様から離れないように守っていて下さいます(ローマ8:35-39)。
イエス様こそ天の御国、永遠のいのちへの道です(ヨハネ14:6)。私たちはイエス様から離れてどこへも行けないのです(ヨハネ6:66-69、使徒4:12)。イエス様から離れないようにしましょう(ヘブル10:25)。
3.神様が喜ばれる実を実らせよう
私たちが実らせるべき実は、自分を喜ばせるものではなく、農夫である神様を喜ばせるものです。自分の益を思わず、神様の栄光になることを考えて歩むことが大事です。神様を第一に考えて、御心にかなったことを願い(Ⅰヨハネ5:14)、志を立てるなら、それを通して神様は御心をなされます(ピリピ2:13、箴言9:21)。主の栄光のために、何でもほしいものを主に求めてよいのです(ヨハネ15:7)。それは私たちの願いを通して主が御心をなして下さるからです。
ただし、主の栄光のための願いであっても、御心にかなっていないために与えられないこともあります。それは農夫がもっと実を実らせるために枝に刈込をされるとあるように(ヨハネ15:2)、私たちがもっと多くの実を結ぶために、神様が別の道を用意されているということです。パウロ達も、行こうとした道が閉ざされたことで、神様の御心とする別の道へと進み、大きな成果を得ました(使徒16:6-10)。
枝が幹にしっかりとつながるなら、多くの実を結びます。私たちも祈りとみことばの学びを通してイエス様とのつながりを強固にしてまいりましょう。そして愛の人に変えられ、イエス様のお働きにますます励みましょう。