22.12.11.

マリヤは、御使いガブリエルに告げられていた通り、聖霊によって身ごもりました。マタイは、「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっいる。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 (訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」(22-23)と語っています。その「預言」とはイザヤ7:14です(1:23)。しかし、イエスが実際に「インマヌエル」という名で呼ばれたことはありません。これは、単なる名前ではなく、イエスが「インマヌエル」なるお方という意味です。では、「インマヌエル」と呼ばれるイエスは、どういうお方なのでしょう。

1.神が人となって私たちの世界に来られた

使徒ヨハネは、イエスについて、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」(ヨハ1:1-3)と証言しています。この「ことば」とは、イエス・キリストのことです。イエスは、神であり、世界の初めから存在しておられたのです(コロ1:15-17)。

さらにヨハネは、イエスについて「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハ1:14)と語っています。イエスは、世界の始まる前から神として存在していましたが、聖霊によって処女マリヤの胎に宿り、人間として生まれて下さったのです。Cf.ピリ2:6-8。神は、万物の創造者、霊なるお方、永遠なるお方、全地全能の偉大な方です。その神が、人間の姿をとってこの世界に来て下さったのです。Cf.ロマ8:3ガラ4:4。霊なるお方が肉なる者となり、永遠なる方が有限なる者となって下さいました。

イエスは人間の赤ちゃんとして生まれましたが、イエスの本来の姿は神であったのです。イエスは、神と人間の間に生まれた半分神で半分人間というものではなく、100%神であり、100%人間であったのです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」神が人間となって、私たちの世界に来られ、私たちのと共に住まわれたのです。それゆえ、イエスは「インマヌエルと呼ばれる」のです。

2.イエスの受肉の目的

① 目に見えない神を現すため

コロ1:15には「御子は、見えない神のかたちであり」とあります。ヘブ1:3には「「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり」とあります。また、イエス自身も「「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハ14:9)と言われました。神は霊であり、姿も形もないため、人間の肉眼で見ることの出来ないお方です。神は、目に見えないご自身を現すために、人間の姿をとって来て下さったのです。ですから、イエスを見る時、神がどのようなお方であるかを知ることが出来るのです。

② 憐れみ深い大祭司となるため

イエスは、肉体を持つため、空腹、喉の渇き、疲れを覚えたり、悪魔の誘惑も受けました。しかし、私たちと違うことは、決して罪を犯すことはなかったということです。イエスは、私たち人間と同じ苦しみを経験することによって、私たち人間の弱さを理解して下り、同情して下さるのです(ヘブ4:15)。そして、イエスは、私たちを一方的に裁いたり、責めたりせず、父なる神の前で、私たちのために執り成して下さるのです。すなわち、イエスは、私たちのために執り成す大祭司となられたのです。このように、イエスは、私たちを執り成す「大祭司」となるために、私たち人間と同じ姿となり、私たちと同じような経験をされたのです(ヘブ2:17-18)。

③ 人間の罪のために死ぬため

聖書は、「すべての人は、罪を犯した」(ロマ3:23)と言っています。聖書が言う罪とは、単に法律を守らないこと、犯罪を起こすことだけではありません。「的外れ」という意味で、神から的を外した生き方をすることです。そして、罪は必ず裁かれなければならず(ロマ6:23)、その結果は死です(ヘブ9:27)。人間の罪が赦され、死と滅びから救い出されるためには、身代わりの命すなわち血が流されなければなりません(ヘブ9:22)。そのため、旧約時代には、いけにえの動物が殺され、その命である血が流されました。しかし、2000年前、イエスは、ご自身を完全ないけにえとして、ささげました。すなわち、イエスは、人となられた神であり、何の罪も全くありませんでしたが、全ての人の罪を負って、十字架にかかり、血を流し、死んで下さったのです(Ⅰペテ2:22,24)。イエスは「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである…」(マコ10:45)と言われました。イエスは、私たちを罪と死と滅びから救うため、十字架にかかり死ぬために来られました。イエスは、血を流し、死ぬため、肉体をとってこの世界に来られたのです(ヘブ2:14-15)。

 

イエスは、「インマヌエル」なるお方、「神は私たちとともにおられる」と呼ばれるお方です。すなわち、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とあるように、神が人間となって、私たちの世界に来られ、私たちの世界に共に住まわれたのです。そして、イエスは、天に帰られる前に、弟子たちに言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタ28:20)  イエスを信じる者の内に、「もうひとりの助け主」(ヨハネ14:16-17)なる聖霊が住まわれます。それは、イエスが私たちと共におられるということと同じです。そして、日々聖霊に満たされ、神の臨在の中、イエスと共に歩みましょう。やがて、イエスが私たちを迎えに帰って来られる時には、「私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(Ⅰテサ4:17)。インマヌエル。神は私たちと共に永遠におられるのです。

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