創世記25:20-34
24.11.3.
人生には、大小様々な選択がある。人生は一度だけ。貴重なもの。人生を無駄にしないために、正しい選択をしなければならない。今日は、エサウとヤコブの選択から学びたい。
1.エサウとヤコブの誕生
イサクは40歳の時にリベカと結婚した。しかし、リベカは不妊の女だったため、子どもが与えられなかった。そこで、「イサクは自分の妻のために主に祈願した。」(21)「主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。」(21) 実際に子どもが生まれたのは、イサクが60歳の時だった(26)。つまり、イサクは子どもが与えられるまで、約20年間、祈り続けていたのであった。
「最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。」(25)「エサウ」とは、「毛深い」という意味。「そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名付けた。」(26)「ヤコブ」とは「かかとをつかむ者」という意味。「エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。」(27) エサウは狩りの技術を身に着け、野山を走り回る野性的な人だった。毛深くて、たくましく、男らしい人だったのだろう。荒々しい性格だったかも。
ヤコブは「穏やかな人」となった。「穏やか」は、ヘブル語で「タム」といい、「正しい、完全」という意味。罪がないという意味での「完全」ではない。神に対する姿勢が正しいという意味。「義人」。ヤコブは、主に対する信仰を持っていた。「イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。」(28)「リベカはヤコを愛していた。」(28)
2.エサウの選択~肉の欲による選択
「さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。」(29)「エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」」(30) エサウは、その食べ物を早く食べたくて仕方なかったのだろう。「赤い」はヘブル語で「アドム」。エサウの子孫のエドム人の語源となった。
「するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい」と言った。」(31)「長子の権利」とは、長男に与えられる特権で、2倍の分け前を受ける特権(申21:17)。それだけではなく、アブラハムとイサクに与えられた神の祝福を受け継ぐという特権。この特権についてエサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」(32)と言った。
「それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。」(33)「ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。」(34) エサウは、大切な長子の権利、神の祝福を受け継ぐという権利を失ったのに、何も感じない本当に霊的に鈍感な人間であった。エサウは、今、自分の欲望が満たされれば良いと考えていた。目に見えない将来の神の祝福よりも、今、自分を満たしてくれるものを選んだ。エサウは「長子の権利を軽蔑した」。
3.ヤコブの選択~霊的な選択
ヤコブは、「長子の権利」がいかに素晴らしく、価値があり、大切なものか分かっていた。日頃から、エサウの持っている「長子の権利」が欲しいと思っていたのだろう。そして、その「長子の権利」を得るための思わぬチャンスがやって来た。恐らく、ヤコブは、自分が食べるための料理を作っていたのだろう。そこに、猟で飢え疲れたエサウがやって来て、その料理を食べさせてくれと頼んだ。
ヤコブは、日頃から「長子の権利」が欲しい、神の祝福が欲しいと考えていたので、すぐに「長子の権利」と引き替えに料理を与えると言うことが出来た。また、この料理をエサウに与えてしまったら、自分の分は無くなり、食べられなくなる。しかし、たとえそうなっても、ヤコブは「長子の権利」が欲しいと思った。心から「長子の権利」が欲しかったので、一食食べられなくても惜しいと思わなかった。
ヤコブは、エサウとは違い、たとえ今は目に見えなくても、将来与えられる大きな祝福を見ていたのである。ヤコブは、霊的なものを価値あるものと考え、それを求める人であった。ヤコブは、エサウに料理を与えた。おそらく、空腹のままであったが、心は満足し、喜びに満たされていたに違いない。大切な「長子の権利」を失ったことに気付かず、満腹して去って行ったエサウとは違う。
私たちはヤコブのように、神の祝福、霊的な祝福を価値あるものとし、求めているだろうか。エサウは、神の祝福、霊的な祝福を軽蔑して、そんなものは要りませんと言った。だから、神の祝福を失った。
人生は、常に選択の連続。私たちは何を選び取っているだろうか。神からの霊的な祝福を優先して求めるのか、それともこの世の一時的な祝福を優先して求めるのか。自分が何を選ぶかということによって、自分がどんな人かを表すことになる。自分はヤコブに似る者なのか、エサウに似る者なのか。霊的な人なのか、肉的な人なのか。いつまでも残る永遠に続くものを求めているのか、一時的でやがて消え去るものを求めているのか。Ⅰヨハ2:15-17。ヘブ12:16-17。
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