ヨハネ2:1-11
24.2.4.
イエスが最初に行われた奇跡は、水をぶどう酒に変えるという奇跡でした。それは、ガリラヤのカナという村で行われた婚礼で行われました。この奇跡は、イエスがどのような方かを教えています。
1.主は必要を満たして下さる – 主に必要を求める
「…ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。」(1-2) マリヤは、この婚礼において、接待の役に携わっていたのかもしれません。「ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。」(3) ユダヤでは、婚礼は、通常1週間、長い時には2週間続けられました。また、そこには、親戚、友人、隣人など大勢の人々が集まりました。ですから、婚礼の主催者は、十分な御馳走を用意しました。しかし、予想以上の客が来たり、予定以上に日にちが延びることもありました。そうなると、婚礼の途中で、ぶどう酒が切れてしまうこともありました。婚礼中に、ぶどう酒がなくなってしまうということは、客に対して失礼なことであり、婚礼の主催者側にとって恥であり、不名誉なことであり、大変な問題でした。
この問題が起こった時、マリヤは、先ずイエスのもとに行ったのです。マリヤは、「宴会の世話役」(9)のもとに相談しに行ったのではありません。マリヤは、先ず、直接、イエスのもとに行って、イエスに助けを求めたのです。マリヤは、イエスなら、この問題を解決して下さるに違いないと期待したのです。
私たちも、毎日の生活や人生の中で、様々な問題に直面することがあります。経済的な問題、健康の問題、家庭の問題、仕事の問題、人間関係の問題など。そのような時、私たちが先ず助けを求めに行くべきところは、主イエスのもとです。マリヤがイエスに「ぶどう酒がありません」と必要を訴えたように、私たちも主を信じ、主に期待し、主に必要や助けを求めましょう。詩50:15。ヘブ4:16。
2.主は計画を持っておられる – 主に全てを委ねる
「すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」」(4) 「女の方」とは、他人行儀な言い方ではなく、尊敬と愛情を込めた言い方です。Cf.ヨハ19:26。また、「わたしの時」または「イエスの時」という言い方は、ヨハネ福音書に何度か出て来ます(ヨハ7:6、8、30、8:20)。
イエスは、十字架にかかる日が近づく中、このように祈りました。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このとためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」(ヨハ12:27) 「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」(ヨハ17:1)
このように、「わたしの時」とは、イエスが栄光を現わす時のことです。そして、イエスが栄光を現すのは、十字架の死と復活によってでした。すなわち、イエスが全人類の罪の贖いのため十字架にかかって死に、三日目によみがえり、天に上げられることによって、イエスの栄光が現わされるのです。しかし、マリヤは、イエスがこの婚宴の席でイエスが栄光を現わすことを願ったのです。それでイエスは、「私が栄光を現す時」「わたしの時はまだ来ていません」と言われたのです。
「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう」という言葉も、「私が奇跡を起こす時について、あなたは何の関係もありません」という意味です。マリヤは、イエスの言葉の意味を悟り、全てをイエスに委ねることにしました。「母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」」(5) 全て主に委ね、主の時と方法に従い、主が「言われることを、何でも」することが大切です。
3.主は奇跡をなさる主 – 信仰をもって主に従う
「さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。」(6) これらの水がめの水は、儀式用の水で、2つの目的のために使われました。家に入る時に、足を洗い清めるためと、食事の前に、手を洗うために使われました。「イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。」(7) 「手伝いの人たち」は、不平不満も言わず、全てイエスが言われる通りに、作業しました。
すると「イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。」(8) 「手伝いの人たち」は、何のためにそんなことをするのか理解出来なかったでしょう。しかし、彼らは、理解出来なくても、イエスの言葉に従いました。無意味なように思えても、納得出来なくても、ただイエスに従ったのです。たとえ、理解出来ないことでも、主と主の御言葉に従うことが大切です。「主がそう言っているから従う」という信仰が必要なのです。
ルカ5:1-6。イエスが「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われると、ペテロは、「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と答えました。そして、「そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった」のです。信仰をもって従ってみなければ分らないこと、見えないこともあるのです。たとえ理解出来ないことでも、主と主の御言葉に従う時、私たちには理解出来ないような奇跡が起こるのです。
何も知らない「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わって」、とても驚きました。なぜなら、それは最高級のぶどう酒だったからです(9-11)。イエスは、何の味もない普通の水を最良のぶどう酒に変えたように、味気ない虚しい人生が、意義のある最高の人生に変えられるのです。Cf.Ⅱコリ5:17。カナの婚礼を奇跡をもって祝福されたイエスは、私たちの人生にも奇跡を現わし、主の栄光を見させて下さいます。
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