ギデオンの召命
士師6:11-16
22.2.06.
イスラエル人は、「また」神に背を向け、偶像礼拝の罪を犯すようになりました(1)。そのため、ミデヤン人たちによって、7年間苦しめられるようになりました。ついにイスラエル人は、助けを「主に叫び求め」(6)るようになりました。そこで主は、イスラエルを救うために士師としてギデオンを遣わされました。主は、ギデオンを士師として召されましたが、彼にどのようなことを語られたのでしょう。
1.主が共におられることを覚えよ
ギデオンは、「酒ぶねの中」に隠れながら、「小麦」の脱穀を行っていました(11)。「酒ぶね」とは、ぶどうの実を足で押しつぶして、ぶどう汁を絞り出すための設備です。ギデオンは、他のイスラエル人と同じように、ミデヤン人を恐れていたのです。そこに「主の使い」が現れ、「勇士よ。主があなたといっしょにおられる」(12)と言いました。しかし、ギデオンは、「勇士」と呼ばれるような勇気のある強い人ではなく、ミデヤン人を恐れる普通の人、「酒ぶねの中」で小麦を脱穀するような臆病者でした。
「主が…いっしょにおられる」と聞いた時、ギデオンは心の思いを言いました。「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」(13) つまり、ギデオンは、「本当に主は共におられるのですか」と問い掛けたのです。ギデオンの内にあったのは、ミデヤン人に対する恐れだけではありませんでした。主に対する不満を抱きながら、「酒ぶねの中」で「小麦」の脱穀していたのです。
私たちも、主に対する不満な気持ちを持ちつつ日々の生活を送ることはないでしょうか。しかし、「主の使い」がギデオンに語られたように、私たちにも「主があなたといっしょにおられる」と語られれているのです。すなわち、どのような状況の中にあっても、その状況に目を向けるのではなく、目に見えなくても、共におられる主に信仰の目を向けなければならなのです。主は、常に、ご自身の民に、共におられることを示して来られ、主は私たちにも「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」(イザ41:10)と語っておられます。
2.共におられる主を信頼して戦え
主はギデオンに「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(14)と語られました。ギデオンに「力」があるから、自分の「力」を信じて戦うようにというのではありません。大切なことは、後ろの「わたしがあなたを遣わすのではないか」という主の言葉です。主がギデオンを「遣わす」ということは、主がギデオンと共にいて下さり、主ご自身が「力」となって下さるということです。
しかし、ギデオンは、主が言われたことをまだ受け入れることが出来ませんでした。そして、自分にはイスラエルを救う力などない理由を述べました(15)。主は、弱気なギデオンに、忍耐をもって「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう」(16)と語られました。主は、再びギデオンを励ましましたが、ギデオンは安心出来ず、「しるしを、私に見せてください」(17)と求めました。「しるし」とは証拠となる奇跡のことです。主は、ギデオンが用意した子やぎの肉料理と種なしパンを岩の上に置き、その上にスープを注ぐようにと指示しました。ギデオンはその通りにしました(20)。「主の使い」が「杖の先」を肉とパンに触れると、「火が岩から燃え上がって、肉と種を入れないパンを焼き尽くしてしまった」(21)のです。「これで、この方が主の使いであることが」(22 )分かりました。
「ギデオンはそこに主のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロムと名づけ」(24)ました。「アドナイ・シャロム」とは、「主は平安」という意味です。主は、恐れと弱さを覚えていたギデオンに平安と確信を与えて下さったのです。主の計画は「平安を与える計画」(エレ29:11)です。その「平安」は、この世のものではない、主からの「平安」です(ヨハ14:27)。私たちが主に御心を求める時、御心であるなら主の平安が与えられるのです。
3.主のために祭壇を築く
主は、ギデオンに父の「バアルの祭壇を取りこわし」、「アシェラ像を切り倒」し、「主のために石を積んで祭壇を築け」と命じました(25)。しかし、「彼は父の家の者や、町の人々を恐れたので、昼間はそれをせず、夜それを行」(27)いました。ギデオンは、主から「わたしはあなたといっしょにいる」と言われ、確信と平安が与えられてしましたが、心の中には人々に対する恐れがまだありました。
さて、「町の人々が翌朝早く起きて見ると、バアルの祭壇は取りこわされ、そのそばにあったアシェラ像は切り倒され、新しく築かれた祭壇の上には、第二の雄牛がささげられて」(28 )いました。そこで、「町の人々」は、「だれがこのようなことをしたのだろう」と調べたところ、「ギデオンがこれをしたのだ」ということが分かりました(29)。彼らは、ギデオンの父ヨアシュに「あなたの息子を引っ張り出して殺しなさい」(30)と言いました。するとヨアシュは「もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が取りこわされたのだから、自分で争えばよいのだ」(31)と言い返しました。人間が作った偶像は、神ではなく、何の力もありません。Cf.詩115:4-8 。
大切なことは、ギデオンが「バアルの祭壇を取りこわし」、「アシェラ像を切り倒」し、主のために「祭壇」を築いたということです。ギデオンがミデヤン人と戦う前に、自分の家にある偶像を取り除き、主のために「祭壇」を築き直して、主に祈りをささげなければならなかったのです。「祭壇」を築き直して祈るということは、主との関係を正して、祈るということです。
共におられる主に信仰の目を向け、御心を求めて祈り、平安と確信をいただきましょう。また、主のために祈りの「祭壇」を築き、主との正しい関係を築き、祈りましょう。主は、私たちにも「勇士よ。主があなたといっしょにおられる」と語っておられます。