23.12.17.

ルカ2:1-20には、イエス・キリストの誕生の次第が記されています。そこには、主の不思議な導きが見られます。

1.ベツレヘムでの誕生

旧約聖書ミカ5:2に、キリストがベツレヘムで誕生するという預言があります。ベツレヘムは、イスラエル南部のユダヤにある町です。しかしヨセフとマリヤが住んでいたのは、イスラエル北部の「ガリラヤの町ナザレ」でした。もしマリヤがナザレでイエスを出産していたら、キリストがベツレヘムで産まれるという預言は実現しなくなってしまいます。しかし、マリヤは、自分が住んでいる町ナザレではなく、ナザレから約120kmも離れたベツレヘムでイエスを産んだのです。それによって、旧約聖書の預言が成就されたのです。

この預言の成就のために用いられたのは、異邦人、異教徒、偶像礼拝者であるローマ帝国の「皇帝アウグスト」でした。「全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た」(1)のです。この勅令に従い、「人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって」(3)行きました。「ダビデの家系であり血筋でもあったので、ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」(4) 「身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するため」(5)に行きました。

もし、「皇帝アウグスト」の勅令がなければ、ヨセフとマリヤは、ベツレヘムへと行かず、預言も成就しなかったことでしょう。神は、この世界と歴史を支配しておられ、この世界と歴史の背後に働いておられます。神は、この世界の様々な人物や出来事を用いて、ご自身の計画を実現されるのです。神こそが全世界の王であり支配者なのです(ダニ4:17)。

2.飼い葉おけに寝かされた

イエスが寝かされた場所は、「飼葉おけ」でした。つまり、イエスは「家畜小屋」で生まれたと考えられます。当時のユダヤの「家畜小屋」は、岩を掘って作った「洞窟」になっていました。その「飼葉おけ」も、石をくり貫いて作られたものであったと言われています。「キリスト」とは「油注がれた者」という意味で、「王」を指す言葉です。王であるイエスは、立派な宮廷ではなく、暗く、汚い「家畜小屋」に生まれ、柔らかいフワフワのベッドではなく、堅く冷たい「飼葉おけ」に寝かされたのです。

聖書には、ベツレヘムの「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」とあります。しかしこれは、イエスのへりくだりを表していることでした。イエスは、神であられるのに、人間の姿になり、貧しくなって来られたのです(ピリ2:6-8)。イエス・キリストが来られた目的は、私たち人間を罪と死と滅びから救うために、十字架にかかって死ぬためであったのです。

また、イエスが誕生した場所は、イエスの死を象徴する場所でもありました。キリストは、十字架にかかって死んだ後、「布にくる」まれ、岩を掘って造った洞窟の墓に入れられ、石の棺に寝かされました(マコ15:46)。キリストが墓に納められた様子は、キリストが飼葉桶に寝かされた様子と重なりました。キリストが洞窟の家畜小屋に生まれ、「布にくる」まれ、石の「飼葉おけ」に寝かされたということは、キリストの死を暗示するものだったのです。

3.羊飼いたちへの告知

イエスが生まれたその晩、ベツレヘムの野原では、「羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守って」(8)いました。ベツレヘムの東方1.2km位には「羊飼いの野」があります。「羊飼いたち」は、「羊の群れ」を、3月から11月に野原で放牧していました。そして、夕方になると羊を囲いに入れ「夜番をしながら」「見守って」いました。

「羊飼いたち」に、御使いが現れて、イエス・キリストの誕生を告げました(ルカ2:11-12)。「羊飼いたち」は当時、社会の底辺にいた貧しい人たちでした。「羊飼いたち」は、生き物を飼っていたため、安息日を守るなど、ユダヤ教の様々な律法を守ることが出来ませんでした。そのため、彼らは、人々から見下され、差別されていました。ですから「羊飼いたち」の言うことは信用されず、裁判の証言も許されませんでした。しかし、神は、このような「羊飼いたち」に、最初にキリストの誕生を知らせたのです。

なぜ、神は、もっと社会的に影響力のある人たち、政治家や宗教的指導者、有名人、お金持ちに伝えなかったのでしょうか。実は、「羊飼いたち」は、私たち罪人の代表だったのです。キリストの誕生が最初に「羊飼いたち」に知らされたのは、キリストが私たち罪人を救うために来られたことを示すためだったのです。神は「この世の知恵ある者」、「強い者」、「権力者」、「身分の高い者」ではなく、「愚かな者」、「弱い者」、「取るに足りない者」、「見下されている者」を選ばれたのです(Ⅰコリ1:26-29)。

 

「羊飼いたち」は、御使いのメッセージを素直にそのまま信じ、受け入れました。彼らは、それを疑ったり、否定したりせず、すぐに応答しました(15-16)。それは、「羊飼いたち」の単純で素直な信仰からきたものでした。そして、「羊飼いたち」は、キリストと出会い、「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20)のです。私たちも、御言葉の実現、主の御業を見させていただき、大きな喜びに満たされ、神を賛美する者とならせていただきましょう。

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