18.7.8.

ヨハネの福音書における、イエスによる第6番目の奇跡は、「シロアムの池での生まれながらの盲人のいやし」です。この奇跡を通して、どんなことが教えられるのでしょう。

1.問題に対する人間的な考え方 : 誰の罪が原因ですか

イエスは、「仮庵の祭りというユダヤ人の祝い」(ヨハネ7:3)のためエルサレムに来ていました。「イエスは道の途中で、生まれつきの盲人」(1)がいることに目が留まりました。彼は、生まれてから一度も光を見たことがなく、暗闇の中に生きて来ました。そして、生きるために、毎日道端に座り、物乞いをしていました。彼は「なぜ自分だけ目が見えないのか」と悲しみの中にあったことでしょう。また、自分の親に対して恨みや怒りを抱いたり、自分の人生を嘆き、何度も「生まれなかったらよかった」、「死にたい」と考えたかもしれません。

 

イエスと共に歩いていた弟子たちも、この「盲人」を目が留まりました。そして、イエスに「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と、彼の不幸の原因を尋ねました。これは、当時のイスラエルにおいては、普通の考え方でした。ユダヤ人たちは、人生の不幸は、その人の罪が原因であると考えていたのです。不幸は、その人の罪に対する神の刑罰であると考えられていました。しかし、この「盲人」の場合は、「生まれつきの盲人」であったので、「この人」が母の胎内にいた時に罪を犯したのか、それとも彼の「両親」が罪を犯したのかと尋ねたのです。

 

私たちは、不幸や災いが起こると、どうしてそれが起こったのかと、原因を考えます。そして、「私がこんなことをしたからだ」と自分を責めたり、親や先生や社会を責めたり、「なぜ神はこんな災いを起こすのか」と神を責め始めます。しかし、そこには本当の解決も、慰めもなく、何の希望もありません。

2.問題に対するイエスの答え : 神の御業が現わされるためです

人生に様々な災いや問題が起こる原因は、3つ考えられます。一つは、自分自身に原因(愚かさ、悪意、怠慢など)がある場合です。この場合は、自分の非を認め、悔い改め、やり直すことが必要です。もう一つは、他の人や状況に原因がある場合です。そして、もう一つは、私たちの敵である悪魔による場合です。しかし、災いや問題の原因が、単純に分かる場合もあれば、これら3つが複雑に絡み合っていたり、全く原因が分からない場合もあります。

 

では、「だれが罪を犯したからですか」という問いに、イエスは、何と答えたでしょう。まず、この「盲人」が「盲目に生まれついたのは」、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません」(3)と言われました。イエスは、「この人」を責めることも、「両親」を責めることもしませんでした。そして、イエスは、「神のわざがこの人に現れるためです」(3)と言われました。何と前向きな、肯定的な答えでしょう。これが神の問題に対する見方です。

 

私たちからは、不幸や災いはマイナスにしか見えませんが、イエスは、「神のわざがこの人に現れるためです」とプラスに見ておられたのです。人間的には、絶望なことも、それはかえって神の栄光が現れるためなのです。神は、私たちの人生に良い目的とご計画を持っておられます。エレミヤ29:11。また、神は、どのような事も益となるように変えて下さいます。ローマ8:28。それゆえに、私たちは「神のわざが…現れるためです」という希望を持てるのです。

3.主の方法に従う : シロアムの池で洗いなさい

イエスは、「地面につばきをして、そのつばきで泥を作られ」、「その泥を盲人の目に塗って」(6)、「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい」(7)と言われました。彼は、イエスに言われるままに「シロアムの池」に行って「洗い」ました。すると、「見えるようになって、帰って行った」(7)のです。

 

なぜ、イエスは、このような方法を取られたのでしょう。大切なことは、「泥」ではなく、「シロアムの池」です。彼が癒されたのは、「泥」を塗られたからではなく、「シロアムの池」で洗ったからです。この「シロアムの池」は、身をきよめるための池でした。巡礼者たちは、「シロアムの池」で身をきよめてから、神殿の丘へと上がって行きました。また、「シロアム」は、「遣わされた者」という意味であり、父なる神によって遣わされた御子イエス・キリストのことです。つまり、「遣わされた者」であるキリストの元に行き、罪の汚れを「洗い」きよめられるなら、霊的な目が開かれて「見えるように」なり、暗闇から光の中に入れられるのです。これがヨハネ9章のテーマです。

 

私たちも、この「盲人」ように、イエスの言われた通りに従うことが大切です。「つばき」の「泥」を塗られることは、決して快くありません。彼は、なぜこのようなことをされるのか理解出来なかったでしょう。しかし、彼は、イエスになされるままに自分の身を委ねたのです。そして、イエスの言葉に従って、「シロアム」の池まで行って、洗ったのです。私たちも、たとえ理解できなくても、気に入らないことでも、主の言葉に従うのです。そのような者に、「神のわざが..現れる」のです。

 

人生に起こる苦しみや悲しみは、「神のわざが..現れる」です。主は、私たちのために良い計画を持っておられ、全てを益に変えて下さいます。ですから、どんなに悪いと思える状況にあっても、主の御言葉に従いましょう。主は、御業を現し、不幸や災いを栄光に変えて下さいます。

Filed under: イエスの奇跡(ヨハネの福音書)伊藤正登牧師