
20.3.29.
イエスが「シモンの家」で「食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に」(3)注ぎました。この「ひとりの女」とは、ヨハ12:3によると、ラザロとマルタの姉妹「マリヤ」でした。マリヤが注いだ「ナルド油」は、十字架にかかって死なれるイエスを示すものでした。
1.最高のお方(聖い神の御子)であるイエス
「ナルド油」は、「純粋で、非常に高価」なものでした。その香油は「三百グラム」(ヨハ12:3)あり、「三百デナリ以上に売れ」(5)るものでした。「三百デナリ」は、3百日分、約10か月分の賃金になります。それほど「非常に高価」な香油を、一瞬のうちに全てをイエスに注いでしまうことは、弟子たちにとっては、全く無駄なことに思えました。
しかし、マリヤは、その「非常に高価」な物をイエスにささげたかったのです。なぜなら、マリヤにとって、イエスは最高のささげものを受けるべき方だったからです。黙示録には、「多くの御使いたち」(黙5:11)がイエスをたたえている姿が描かれています。彼らは、「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です」と「大声で」言いました(黙5:12)。イエスは、最高の賛美と栄光を受けるのに相応しい方です。
このように、マリヤがささげた「純粋で、非常に高価」な「ナルド油」は、「聖なる神の御子」であるイエスを表すものであったのです。マリヤは、最高のお方に最高のささげ物をしました。主へのささげ物は、「最上のもの」であることが求められています(出エ23:19)。マルコ12:41-44で、イエスは、レプタ銅貨2枚を投げ入れたやもめの献金は、多額の献金を投げ入れた誰よりも多いと言われました。それは、彼女が持てる全てのものをささげたからです。イエスは、「この女は、自分にできることをしたのです」(8)と言われました。大切なことは、自分の出来る最善、精一杯をささげるということです。
2.惜しむことなく血を流されたイエス
「純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼ」を割るということは大胆な行動です。これを見ていた「何人かの者が憤慨して」、マリヤを「きびしく責め」ました。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」(4) マタイによると、この言葉を言ったのは「弟子たち」(マタ26:8)でした。弟子たちは、マリヤがイエスに注いだ「ナルド油」をもったいないと思いました。ヨハネは、イエスを裏切った「イスカリオテ・ユダ」の言葉として記しています(ヨハ12:5)。しかし、ユダは、「貧しい人々のことを心にかけていたからではなく」(ヨハ12:6)、ただそのお金が欲しかったからそう言ったのです(ヨハ12:6)。しかし、マリヤは「純粋で、非常に高価なナルド油」全てを惜しみなくイエスに注ぎました。
マリヤが大胆に「石膏のつぼ」を割って、惜しみなく「純粋で、非常に高価」な「ナルド油」を注いだということは、「聖なる神の御子」イエスが、私たちを救うために、刺し通され、打ち砕かれ、惜しむことなく血を流し、命を与えて下さったことを表すものでもあったのです。イザ53:5には、メシヤの受難が預言されていました。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
父なる神は、私たちを愛して、救うために、惜しむことなく御子を送って下さいました。御子イエスも、私たちのために、惜しむことなく血を流し、命を与えて下さました。私たちも、マリヤのように、惜しむことなく、心から喜んでささげることが大切です(出エ25:2、35:5,21-22,29、Ⅱコリント8:2-4、9:7)。
3.父なる神の時に従ったイエス
イエスは、マリヤがしたことを「わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです」(6)と言って、マリヤの行為を称賛しました。そして、「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです」(8)と言われました。マリヤがイエスの死をどの程度理解していたかは分かりません。しかし、結果的にマリヤの行為は、イエスの死を暗示するものとなり、図らずもイエスの葬りのための準備となったのです。この2日後、イエスは十字架にかかられ、死ななければなりませんでした。ですから、イエスに「ナルド油」を注ぐことが出来るのは、この時しかなかったのです。もし、この機会を逃してしまったら、このようなことは永遠に出来なかったでしょう。しかし、マリヤは、イエスに愛を表す時を逃しませんでした。
イエスも、ご自分が十字架にかかる時を逃しませんでした。イエスは、人間を救うために、ご自分が十字架にかかって死ぬべき時を知っていました。その「時」を意識して歩んでおられました(ヨハ2:4、7:6,8,30、8:20、12:23,27、13:1、17:1)。そして、イエスは、十字架にかかって死ぬ時が来たことを知った時、「見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです」(マタ26:45)と言って、自ら十字架へと向かって行かれたのです(マタ26:46)。
聖書は「機会を十分に生かして用いなさい」(エペ5:16、コロ4:5)と言っています。主にささげる機会が訪れた時には、その機会を逃すことなく、ささげましょう。常にイエスを愛し、イエスにささげようとしている人は、その機会を得るのです。
イエスは、「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」(9)と言われました。それは、マリヤのしたことが単に素晴らしかっただけではなく、イエスがして下さったことを表すことであったからです。聖なる神の御子イエスが、時が来た時、惜しむことなく血を流して下さったことは、「世界中」に「宣べ伝えられ」、「語られ」、「記念となる」のです。私たちも自分に出来る最高のものを、惜しむことなく、機会を捕らえてささげましょう。