17.12.17.

マリヤとヨセフの信仰

ルカ1:26-38、マタイ1:18-25

イエスの両親として選ばれたのは、マリヤとヨセフです。
彼らは、御使いから救い主の誕生を知らされました。
その知らせに対して、彼らはどのように答えたのでしょうか。

1.マリヤの応答

御使いガブリエルの現れに驚くマリヤに、驚くべきことが告げられました。
それは、マリヤが「男の子」(31)を産み、その子が「いと高き方の子」(32)と呼ばれ、
「ダビデの王位」(32)が与えられ、「その国は終わることがありません」(33)ということです。
これは、マリヤから生まれる「男の子」が、救い主(メシヤ)であるということです。
普通の娘であったマリヤが救い主の母として選ばれたということは、驚くべきことでした。
更に驚くべきことは、マリヤがまだ結婚もしていないのに、身ごもるということでした。
マリヤには、ヨセフという婚約者がいましたが、二人はまだ結婚していませんでした。
ですから、子どもが生まれるということは、考えられないこと、あり得ないことでした。
マリヤは、ガブリエルに「どうしてそのようなことになりえましょう。
私はまだ男の人を知りませんのに」(34)と問いかけました。
しかし、これは、「信じられません」、「不可能です」という否定的な応答ではありません。
マリヤは、「どのようにして(How)それが成されるのでしょう」と尋ねたのです。
すなわち、マリヤは、そのメッセージを肯定的に受け入れ、関心と期待を持ったのです。
御使いの答えは、「聖霊」による、「いと高き方の力」による、というものでした。ルカ1:35
聖霊が臨み、神の力が働かれることによって、可能になるということです。
ガブリエルは、マリヤの質問に対して、何も具体的な方法は説明しませんでした。
そして、最後に、「神にとって不可能なことは一つもありません」(37)と言いました。
私たちが関心を持つことは、「どのようにして起こるのか」ということです。
しかし、「どのようにして」は、神の成される領域であり、私たちの領域ではありません。
私たちが知るべきこと、大切なことは、「どなたが成されるのか」ということです。
そして、どんなに不可能に思えることでも、神には不可能なことは何一つないのです。
御使いガブリエルに対して、マリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。
どうぞ、あなたのおことばどおりこの身に成りますように」(38)と言って応答しました。
マリヤが「みごもって、男の子を産」むことは、大きなリスクの伴うことでした。
当時、結婚していないのに妊娠することは、姦淫の罪を犯したとみなされたからです。
結婚前に妊娠したということが知られたら、周囲の人々から中傷を受けたり、
人々の前にさらしものになったり、最悪の場合は死刑にもなりました。
しかしマリヤは、自分自身を全て神に委ね、神に従おうとしたのです。

2.ヨセフの応答

「ヨセフは正しい人」(19)でした。これは、「罪のない完璧な人」という意味ではなく、
「忠実に律法に従っている人」、「常識的な人」、「ルールを守る人」という意味です。
律法に従おうとするなら、マリヤは裁かれ、処刑せられなければなりません。
しかし、ヨセフは、マリヤを助けるため、最善と思われる方法を取ろうとしました。
ヨセフは、マリヤを「内密に去らせようと決め」(19)たのです。
婚約関係がなければ、姦淫の罪に問われることはなく、マリヤの命は守られました。
しかし、そうすることは、神の救いの計画を妨げてしまうことになりました。
なぜなら、もし、ヨセフがマリヤを妻として迎え入れていなかったなら、
救い主キリストが「ダビデの子孫」として生まれるという
旧約聖書の預言も成就しなかったことになり、神様の救いの計画は実現しないからです。
ヨセフは、自分が最善であると考える方法をとることで、
神の救いの計画を破壊し、人類の救いを妨げようとしてしまっていたのです。
ヨセフがマリヤを「内密に去らせようと決め」た時、
「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい」(マタイ1:20)と語りました。
すなわち、マリヤから生まれる「男の子」は「聖霊による」ものであり、
その「男の子」は、「ご自分の民をその罪から救ってくださる」救い主であるということです。
「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ」ました。
ヨセフは、神の導きに従って、マリヤと結婚する決断をしました。
その決断には、様々な困難が予想されましたが、ヨセフは、主の語りかけに従いました。
ヨセフは、一旦自分が決めたら、絶対にそれを変えないといような、
融通のきかない頑固者ではありませんでした。
ヨセフは、「正しい人」、すなわち「忠実に律法に従っている人」、「常識的な人」、
「ルールを守る人」ではありましたが、頑固な頭の持ち主ではありませんでした。
ヨセフは、物事を決して決めつけることなく、神に従う心を持っていたのです。

マリヤとヨセフに見られる共通の信仰とは、
絶対的な神に対する絶対的な信仰です。単純な信仰、幼子のような信仰です。
マリヤとヨセフは、自分たちに理解出来ないことであっても、
信じられないことであっても、また、自分たちにとって不都合なことであっても、
単純に神を信じ、神の語りかけに従ったのです。
私たちは、神と神の語りかけに対して、どのように応答するでしょうか。
初めから否定的になって、それを拒んでしまうことはないでしょうか。
また、常識的に考えて、自分が正しいと思える方法を取ろうとして、
かえって神の働き、御業を妨げてしまうようなことはないでしょうか。伝道7:16
自分自身や自分の置かれた状況を見る時に、不可能に思えることでも、
聖霊が臨み、神の力が働かれることによって、可能になるのです。
神の御業は、人間の常識をはるかに超えた方法で現されることがあります。イザヤ55:8,9
偉大な神を人間のちっぽけな思考の中に閉じ込めてしまってはなりません。
信仰とは、理解することではなく、神と神の言葉をそのまま信じることです。
マリヤとヨセフのように、絶対的な信仰をもって、神に従いましょう。

Filed under: 伊藤正登牧師