15.11.15.

一致…寛容を示し、互いに忍び合う

エペソ4:1-3

私たちは教会として一つとなるようにあらゆる努力をしなければなりません。
そして、2,3節には、一致のために努力しなければならないことが記されています。
すなわち、「謙遜」、「柔和」、「寛容」、「忍耐」、「平和」です。
今日は「寛容を示す」と「互いに忍び合う」ということについて学びましょう。

1.寛容 : 広い心で受け入れる

新約聖書の原語のギリシア語で、「寛容」は「マクロスミア」と言い、
「大きな心、広い心」という意味になります。
すなわち、「小さなことに動じない。すぐにカッとなって怒ったりしない。
責めたり裁いたりりしない。全てを受け入れる」ということです。
しばしば私たちは、人の外見、表情、態度、言葉だけでその人を判断してしまいます。
そして、その人を批判したり、赦せなかったり、怒りを感じたりするものです。
相手の立場、相手の身になって考えようとせず、一方的に裁いてしまうのです。
聖書は「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」と教えています。ピリピ2:4
すなわち、その人の考え方、気持ち、立場に立って、
どうしてそういう人間なのか、そういう行動を取るのか理解しようとするのです。
自分の視点で人を裁くのでなく、相手の側に立つということが必要です。
イエス様も、人々から罪人扱いされ、嫌われていた人々に近寄り、友となりました。
サマリヤの女(ヨハネ4章)、香油を塗った罪深い女(ルカ7:36-40)、ザアカイ(ルカ19:1-10)。
イエス様は彼らの表面ではなく、彼らの内なる必要を見ておられたのです。
神様の御子イエス様は私たちと同じ人間の姿になり、私たちと同じ立場に立って下さり、
私たちと同じ経験をし、私たちの弱さを理解し、同情して下さるお方です。へブル4:15
そして、イエス様は十字架の上で私たちのために取り成し祈られました。ルカ23:34
イエス様は日々私たちのために執成して下さっているのです。ローマ8:34
その人の表面だけで判断することなく、一方的に裁くことなく、
その人の考え方、気持ち、また内なる必要に目を向けましょう。
そのためには、相手の気持ちを汲み取るということが必要です。ヤコブ1:19,20
いつまでもその人の外見(欠点、問題点)だけに目を留めていては、決して一致出来ません。
その人のについて考えるようになると、その人に対する感じ方も、対応も変わります。
そして、次第に、その人を赦せるようにもなっていくのです。
その人の立場に立ち、その人の内面に目を向け、その人を理解し、受け入れましょう。
「寛容」は、どんな物をも十分に余裕をもって包み込み、
受け入れることのできる広い風呂敷のようなものです。
良い人間関係は、寛容、大きな心、広い心で相手を赦し受け入れることから始まります。

2.忍耐 : 愛によって棚上げし合う

「忍び合い」という言葉は、「忍耐する」、「我慢する」、「こらえる」という意味ですが、
特に「一緒に生活し難いような人」に対する態度に関して使われています。
ギリシア語の原語では「棚上げにする」という意味になっています。
棚上げとは、問題を棚の奥の手の届かないところにしまいこんで、
無視したり忘れたようなふりをすることです。
そうこうしているうちに社会状況や人の心持ちが変わったり、忘れ去られたり、
新鮮味がなくなったりして、問題自体の重要性が薄れることを待つのです。
誰一人完全な人はいません。みな欠点や弱点や問題を持っているものです。
しかし、それらの欠点や弱点や問題だけに焦点を合わせて裁いたりせずに、
それらを一旦「棚上げにする」のです。
神様は、私たちの罪を十字架のイエス様の上に永遠に棚上げして下さいました。
神様が私たちの罪、欠点も弱点も問題点も、イエス様の十字架に棚上げして下さって、
それらを無いものとして下さって、私たちを受け入れて下さっているように、
私たちも、お互いの欠点や弱点や問題点に焦点を合わせるのではなく、
それらを神様の御手の上に棚上げし、互いに受け入れ合うのです。コロサイ3:13,14
自分の欠点や弱点や問題は棚に上げて、人のことを批判したりすることがありますが、
自分のことではなく人のことを棚に上げるのです。
理想や完璧だけを求めるのではなく、現実を受け入れなければなりません。
あまりにも理想的で完璧なクリスチャンであることを期待してしまうと、
目の前の現実の兄弟姉妹、弱さや欠けや問題のある兄弟姉妹を裁いてしまったり、
嫌ってしまったりして、受け入れられなくなってしまいます。
教会とは完全な人たちの集まりではなく、不完全な人たちの集まりであるはずです。
あまりにも理想的や完璧主義となってしまうことによって、人間関係と交わりを壊し、
一致を妨げ、分裂をもたらし、キリストの体なる教会を破壊してしまうのです。
どんなに不完全であっても、弱さや欠けや問題があっても、
裁いたり、見下したり、嫌ったり、無視したり、避けたり、教会から去ったりしないで、
それらを愛をもって神様の手に棚上げして、互いに受け入れ合いましょう。
仕方なくがまんするのではなく、「愛をもって忍び合い」です。

聖書は「寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い」なさいと言っています。
「謙遜と柔和」と同じように、「寛容」と「忍び合い」も、
私たちの努力だけによって得られるものではありません。
聖霊の力と助けによって、私たちの内側に形作られていくのです。
聖霊は私たちを「栄光から栄光へと、主と同じかたちに」変えて下さいます。Ⅱコリント3:18
聖霊によって、イエス様のように「謙遜と柔和」な人に変えていただきましょう。

Filed under: 伊藤正登牧師