20.9.20.

18章では、三人の旅人との出会いについて記されています。彼らは、アブラハムに二つの重要なことを伝えました。何を伝え、何を求めたのでしょう。

1.イサク誕生の予告とアブラハムの信仰

「三人の人」(2)がアブラハムの前に現れました。この3人の内、2人は「ふたりの御使い」(19:1,cf18:22)と言われています。また、残りの1人については「主」という言葉が使われています(13,20,22,33)。この「主」と呼ばれる人は、受肉前の御子であると言われています。アブラハムは、「彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼を」(2)しました。「地にひれ伏して礼をした」とは、礼拝の態度です。そして、アブラハムは、この「三人」に最大限のもてなしをしました。「三人」の足を洗う「水」(4)を用意し、サラに「上等の小麦パン菓子」(6)を作らせました。また、「柔らかくて、おいしそうな子牛」(7)の料理を用意し、「凝乳と牛乳」(8)を出し、一族の長であるアブラハム自らが給仕をしました。

すると、食事の席で、「三人」の内の一人が、アブラハムに告げました。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」(10) 「天幕の中」(9)で話を聞いていたサラは、信じられず「心の中で笑って」(12)しまいました。なぜなら、この時、アブラハムは99歳で、サラは89歳でしたから、子どもを生むことは人間的には不可能だったからだです。しかし、主は、サラの心の中のことも知っておられ、「なぜ笑うのか」と言い(13)、「主に不可能なことがあろうか」(14)と言われました。

この時、サラは、主の言葉を信じられずに笑ってしまいましたが、その後、主の言葉を信仰をもって受け止めることが出来ました。「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」(ヘブ11:11) アブラハムも、主の約束を堅く信じるようになりました。「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」(ロマ4:19-21) 

主は、私たちをも祝福したいと願っておられます。しかし、どんなに素晴らしい祝福も、信仰がなければ、受け取れないのです。信仰は、主の祝福を受けるための、唯一の手段です。主が私たちに求めておられるのは、信仰です(ヘブ11:6)。

2.ソドム滅亡の予告とアブラハムのとりなし

主は、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」(17)と言われました。なぜなら、アブラハムには、国々の祝福となるという使命が与えられていたからです。主は言われました。「アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、….主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである」(18-19)。アブラハムは、「地のすべての国々」に「祝福」をもたらすために選ばれたのです。それで、主は、「ソドムとゴモラ」を滅ぼす前に、主が下そうとしておられた裁きについて、前もってアブラハムに打ち明けたのです。

主は、アブラハムに「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い」(20)と言われました。しかし、アブラハムは、彼らの堕落を単に嘆いたり、批判したりしませんでした。「ソドムとゴモラ」が滅ぼされることに無関心でありったり、無視したりしませんでした。アブラハムは、「主の前に立って」(22)、「ソドムとゴモラ」のためにとりなしたのです。「とりなす」とは、その人の立場に立ち、その人の代わりに赦しと和解を求めることです。ソドムにはロト一家も住んでいましたから、ロトたちのためにもソドムを滅ぼさないでほしいと願ったのでしょう。

アブラハムのとりなしは、単に「可愛そうだから赦して下さい」というものではなく、神の正義に対して訴えるものでした(23-25)。アブラハムは、神が正しい者を悪い者と一緒に滅ぼすことはあり得ないと訴えました。そして、「全世界を裁く神は、公義を行うべき」(25)であると主張したのです。アブラハムのとりなしは、「五十人」(24) から始めて、「十人」(32)まで引き下げました。しかし、傲慢になって、主を思い通りに動かそうとしているのではありません。アブラハムは、主を恐れつつ、へりくだってとりなしました。

・「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。」(27)

・「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。」(30)

・「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。」(31)

・「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。」(32)

主は、アブラハムに「滅ぼすまい。その十人のために」(32)と約束して下さいました。主は、へりくだった者の祈りを聞いて下さるのです。Cf. ヤコブ4:6,10。アブラハムのとりなしの姿から、神と人との間に立ってとりなす祭司の姿が見られます。これこそが、祝福の器として召されたアブラハムの大切な使命、務めなのです。今日、私たちも信仰によってアブラハムの子孫とされ(ガラ3:7)、アブラハムと同じように、祝福の器として、神と人の間に立ってとりなす祭司とされているのです(Ⅰペテ2:5,9)。

 

主は、私たちにも主を信じ信頼するようにと、信仰のチャレンジを与えておられます。どんなに不可能なことであっても、主に不可能なことはありません(マタ19:26ルカ1:37)。主を信じ、主が約束して下さっている祝福をいただきましょう。主は、ご自身の御前に立って、とりなす者を求めておられます(イザ59:16エゼ22:30)。自分のためだけでなく、他の人々のためにもとりなし祈りましょう(Ⅰテモ2:1Ⅱ歴7:14)。