16.09.25.

与えること(サービス)の祝福

使徒20:35

この「受けるよりも与えるほうが幸いである」という教えは、
イエス様の全ての教え、イエス様の全ての行動の要約であるとも言えます。
イエス様は、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と教え、そのように歩まれました。
また、「幸いである」という言葉は、「祝福されている」という意味の言葉です。
聖書は、「受けること」ではなく「与えること」が本当の祝福なのだと教えているのです。

1.サービスについての世の考え方

世の中には、「サービス」と付くものが色々とあります。
しかし、純粋に「タダ」で受けられる「サービス」は、あまりありません。
あったとしても、それはわずかなものに限られ、その裏には何か意図が隠されています。
また、実際に、何かをタダでもらうことがあっても、
それは本当のタダなのではなく、何かの代償としてのプレゼントの場合もあります。
むしろ、世の中では、サービスは、お金を出して買うものとなっています。
良いサービスを受けるためには、それだけ多くのお金を払わなければなりません。
これは、決して悪いことなのではなく、社会のシステムが上手く機能していくために、
必要なルールと言うことも出来ます。「Give and take」の原則です。
すなわち、相手に利益を与えることによって、自分も相手から利益を得ることです。
そのため、私たちの中には、「自分がこれだけやったのだから、
これだけのことは得られるだろう」という考え方が、深く根付いてしまっています。
私たちは、自分の払った犠牲の報酬を当然のこととして求めるようになっています。
しかし、この原則を社会のルールに適用出来ても、人間関係に適用することは出来ません。
もし、人間関係に適応してしまうなら、相手も自分も不幸にしてしまう結果となります。
同様に、この原則を神様を礼拝することや、教会に適用してもならないのです。ローマ12:2

2.礼拝(サービス)における真の姿勢

私たちが神様を礼拝する時、どのような気持ちで礼拝しているでしょうか。
勿論、神様の恵みに対する感謝と喜びをもって礼拝している方が多いと思います。
しかし、世の中のサービスについての考え方で、礼拝していることはないでしょうか。
すなわち、「自分がこれだけやったのだから、
これだけのことは得られるだろう」という考え方です。
それは、礼拝ではなく、「取引き」です。
「礼拝」は英語で「Service」と言われていますが、その「Service」は、
私たちが受けるものではなく、神様にささげるものという意味なのです。
礼拝とは、私たちが神様から何かを得るためのものではなく、神様にささげるものです。
私たちは、神様から何かをいただくために、神様を礼拝しているのではありません。
たとえ何かが与えられても、与えられなくても、私たちは神様を礼拝するのです。
正しく信仰深いヨブは、財産も、子どもたちも、自分の健康までも失ってしまいました。
そのような時にも、ヨブは神様を礼拝しました。ヨブ1:21
神様を礼拝するのは、神様が神様であり、神様が礼拝を受けるに相応しいお方だからです。
私たちは、神様のご性質のゆえに、神様の御業のゆえに、神様を礼拝するのです。
神様を礼拝するのは、神様から何かをいただくためではありません。
神様が礼拝を受けるに相応しいお方であるゆえに、神様を礼拝するのです。
私たちを喜ばせるために礼拝するのではなく、神様に喜んで頂くために礼拝するのです。
そのような礼拝に、神様は来られ、住まわれ、臨在し、恵みを注がれるのです。
何の報酬も求めず、神様を礼拝することが、私たちにとっての幸い(祝福)なのです。

3.教会のメンバーであるということの奉仕(サービス)

「自分がこれだけやったのだから、これだけのことは得られるだろう」という考え方を、
教会との関わりにおいても適応されてしまう人がいます。
その人たちにとって、教会のメンバーとなるということは、特別扱いされることなのです。
礼拝献金や什一献金は、喜びに溢れた、無条件で無償のささげものではなく、
特別なサービスを受けるための会費や月謝と同じものとなってしまっているのです。
しかし、教会のメンバーとなるということは、キリストの体の一部となるということです。
聖書は、教会とは建物のことではなく、「キリストのからだ」(エペソ1:23)であり、
私たち一人一人がその体を構成するメンバーであると教えています。Ⅰコリント12:27
すなわち、教会のメンバー一人一人が手や足などの器官なのです。
そして、一人一人が体の中の手や足などの器官であるということは、
一人一人に果たすべき役割があるということです。
自分が特別扱いされたり、何かサービスを受けたり、仕えられることではありません。
「教会が自分に何をしてくれるか」ではなく「自分は教会に何が出来るか」です。
このように、聖書的な教会のメンバーシップについて正しく理解している人は、
教会に自分の権利を主張したり、自分の好みや願望を教会に押し付けません。
私たちは、仕えるため、与えるため、犠牲を払うために教会に召されたのです。
そして、何の報酬も求めず、与え、仕えることが、私たちにとっての幸い(祝福)なのです。

イエス様は、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と教えられました。
しかし、ただ教えるだけではなく、そのように生きられました。ピリピ2:3-8
イエス様が私たち全人類の救いために、身代わりとなって十字架にかかろうとしていた時、
弟子たちは誰が一番偉いだろうかという議論をしていました。マルコ9:34
その時、イエス様は、「仕える者」、「しもべ」になりなさいと言われました。マタイ20:25-28
そして、イエス様は、十字架にかかられる前夜、最後の晩餐の席で、上着を脱ぎ、
手ぬぐいを腰にまとい、タライに水を入れて来て、弟子たち一人一人の足を洗われました。
イエス様は「仕える者」、「しもべ」となられたのです。そして、イエス様は言われました。
ヨハネ13:14-15。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、
あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、
あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
私たちは、「受ける」ためではなく、「与える」ために生かされています。エペソ2:10
礼拝においても、教会においても、「受けるよりも与える」者となりましょう。

Filed under: 伊藤正登牧師