Ⅰサムエル16章

23.9.3.
イスラエルの最初の王として任命されたサウルは、神から退けられてしまいました。それは、サウルが神の命令に聞き従わずに、聖絶のものを取ってしまったからです。神がイスラエルの新しい王として選ばれたのは、ダビデでした。ダビデは、どのように選ばれたのでしょう。なぜ選ばれたのでしょう。
1.主の目にかなったダビデ
主は、サムエルを「ベツレヘム」の「エッサイ」の家へと遣わされました(1)。主は、エッサイの「息子たちの中に」に「王」として相応しい者を選んでいたのです。そして、主はサムエルに「わたしが言う人に油をそそげ」(3)と言われました。「サムエルは主が告げられたとおりにして、ベツレヘムへ行った。」(4) 「サムエルはエッサイとその子たちを聖別し、彼らを、いけにえをささげるために招いた。」(5)
最初に「サムエルはエリアブを見て、『確かに、主の前で油をそそがれる者だ』と思った。」(6) しかし、主は「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(7)と言われました。続けて次男「アビナダブ」と三男「シャマ」が呼ばれましたが、サムエルは彼らを「主は選んでおられない」と言って、退けました(8,9)。「こうしてエッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。『主はこの者たちを選んではおられない。』」(10)
サムエル:「子どもたちはこれで全部ですか。」
エッサイ:「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」
サムエル:「その子どもを連れて来なさい。」(11)
その「末の子」が「ダビデ」(13)でした。ダビデはまだ年も若く、一人前の大人として認められていませんでした。それで「羊の番」という最も身分の低い者のする仕事しかしていませんでした。しかし、ダビデは「血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった」(12)。これは、ダビデが健康で、良い心を持ち、体格も良かったということです。主は、サムエルに言われました。「さあ、この者に油をそそげ。」(12)「サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。」(13)
2.主は心を見る
エッサイの末息子ダビデが王に選ばれるなどとは考えられないことでした。「末の子」という言葉には、最も小さな者、役に立たない者という意味がありました。ダビデは、人間的には、最も選ばれる可能性のない人物だったのです。しかし、主は、人間的には最も相応しくない者を、主の器として選ばれるのです。聖書の中で、主に用いられた者たちの中には、弱さや欠点のある人々もいました。モーセ、ギデオン、エリヤ、そして、イエスの弟子たちもそうでした。
パウロもⅠコリ1:27-28で次のように言っています。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」
「人はうわべを見る」とある通り、私たちは外見で人を判断してしまいます。その人の容姿(外見)、能力、強さ、知恵や知識、立場など。しかし、主は「人が見るようには見ない」のです。主の見方と人の見方は異なるのです。ダビデは、確かに「血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱ」な人物でした。しかし、主がダビデを選ばれたのは、単に彼の外見が良かったからではありません。主は、ダビデの心をご覧になっておられ、その心が主の御心にかなっていたからです。
3.ダビデの心は主と一つになっていた
では、ダビデは、どのような心を持っていたのでしょうか。主は、ダビデについて、「ダビデは、わたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの見る目にかなったことだけ行った」(Ⅰ列14:8)と言われました。ダビデは、主の言葉、主の御心に従い、主が喜ばれることをしようとしたのです。ダビデの心は、主と一つになっていたのです。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(Ⅱ歴16:9)
なぜ、ダビデは、主と心が一つとなっていたのでしょう。それは、ダビデが主との親しい交わりを持つ人だったからです。ダビデについて、「琴がじょうずで勇士であり、戦士です。ことばには分別があり、体格も良い人です。主がこの人とともにおられます」(18)と言われています。「神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼から離れた。」(23) サウルは、ダビデの弾く竪琴によって癒され、心が安らぎ、気分も良くなりました。
羊飼いのダビデは羊を見守りながら、主を賛美し、主との交わりを持っていました。詩34:1。ダビデは、心から主を愛し、慕い求め、賛美し、祈り、主と親しい交わりを持ちました。そのような中で、自然に主の御心を自分の心としていったのです。「しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。」(Ⅰコリ6:17) ダビデは、主と交わり、主と心が一つになっていたのです。
まとめ&結論
今、あなたの心は、どのような状態でしょうか。主と心が一つになっているでしょうか。主の御言葉に従い、主の御心を喜んで行おうとしているでしょうか。主は、あなたの外面ではなく、心を見ておられます。そして、あなたが主と心を一つにすることを望んでおられます(Ⅱ歴16:9)。ダビデのように、主を慕い求め、御前に出て、主との親しい交わりを持ちましょう。ダビデのように、主と心を一つにする者となりましょう。