17.5.21.
主の働き人となる
エペソ2:8-10
マタイ9:37で、イエス様は、「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われ、
「収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われました。
必要なのは、「働き手」であるということです。
「働き手」さえいれば、救いに導かれる人々は大勢起こされるのです。
イエス様の言葉に応答し、一人一人「働き手」として立ち上がることが求められています。
1.私たちは良い働きのために召された
エペソ2:8,9。私たちが救われるためには「良い行い」は必要ではありませんが、
私たちが救われた目的は、「良い行いをするため」です。Cf.テトス2:14。
私たちが救われたのは、ただ自分が天国に入るためだけではありません。
神様は、私たちを「仕える者」、「奉仕者」として召されたのです。
「クリスチャンの人生とは、
ただ天国に行く日を我慢して待つだけの人生である」という考え方は間違っています。
神様は、私たちを救われた後も私たちをこの地上に残されました。
それは、私たちがこの地上で「良い行いに歩む」ためであったのです。
私たちが成すべき「良い行い」とは、「神の国の働き」のことです。
私たちは、人々に福音を宣べ伝え、彼らを神様の元へと導かなければなりません。
ある人たちは、「神の国の働き」は、特別に選ばれた人たち、
牧師や伝道師、役員やリーダーがすることだという間違った確信を持っています。
そして、自分たちは「お客さん」となってしまい、恵みを受けるだけで、
自分から「神の国の働き」のため何かしようとか、責任を持とうとしないのです。
それは、居心地の良い状態なのかもしれませんが、
神様が望んでおられる正しい姿ではありません。
「忙しい」、「自分のやりたいことがある」、「賜物がない」などと言い訳を言って、
結局自分のことだけで、奉仕のために何もしようとしない人たちもいます。
今、私たちは、教会の中の、数名の、特定の人たちだけに仕事を任せるのではなく、
一人一人が神様の働きのために重荷を担うべきです。
私たちは、「仕える者」、「奉仕者」となるために、生かされているのです。
2.主の愛に満たされ喜びをもって仕える
私たちが神様の働きのために「仕える者」、「奉仕者」となるのは、
「しなければならない」という義務感、「自分だけしないのは申し訳ない」という罪責感、
「しないと祝福がない」という恐れからではありません。
私たちは、神様が救って下さったことへの深い感謝の思いをもって、喜んで仕えるのです。
仕えること、奉仕の原動力、動機となるものは、救いの喜びです。詩篇51:12。
イエス様に出会い、その愛と恵みに触れた人々は、喜んで仕える者となりました。
ですから、私たちは、救いの喜びを失わないようにしなければなりません。
もし、救いの喜びなしで、仕えていくなら、やがて疲れ果ててしまいます。
律法学者やパリサイ人のように、表面的、形式的、律法的な奉仕となってしまうのです。
黙示録2章にあるエペソの教会もそうでした。
彼らは、主のために「労苦と忍耐」をしてきました。
しかし、主は「あなたは初めの愛から離れてしまった」と言われました。黙示2:4,5。
彼らは、主のために労苦し、忍耐し、主に仕えていましたが、
次第にそれは喜びの伴わない、形式的、義務的な奉仕となってしまっていたのです。
ですから、私たちは、常に神様の愛という原点に立ち返らなくてはなりません。
そのために、神様が自分にして下さったことを思い起こしましょう。詩篇103:2-5、8-12。
また、常に、神様の愛に満たされていることが必要です。
神様の愛は、聖霊によって私たちに注がれます。ローマ5:5。
神様がどんなに私たちを愛し、どれだけ恵んで下さったかが分かれば分かるほど、
次第に仕える者へと変えられて行くのです。Cf.ルカ7:47。
3.兄弟姉妹たちと一致協力して仕える
「神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えて」おられます。
そして、神様は、私たちが「良い行い」すなわち「神の国の働き」が出来るようにと、
私たち一人一人に特別な能力や才能、すなわち「賜物」も授けて下さいました。
一人一人に様々な「賜物」が与えられていますが、
それは個人のためではなく、教会のために与えられたものなのです。Ⅰペテロ4:10。
「賜物にはいろいろありますが」(Ⅰコリント12:4)、
「みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです」(12:7)。
「賜物」は、自分のためではなく、「みな」すなわち教会の益のために使うものです。
私たちの体が様々な器官から成り、それぞれの器官にはそれぞれの役割があるように、
私たちも「キリストのからだ」(エペソ1:23)なる教会の「各器官」(Ⅰコリント12:27)として、
それぞれの果たすべき役割があるのです。
ですから、一人一人の存在と奉仕は、教会に欠かせないものです。Ⅰコリント12:12-27。
一人一人の存在は重要で、一人一人には果たすべき役割があり、
私たちはお互いに必要としているのです。必要のない人は誰もいません。
私たちが「キリストのからだ」である教会に加えられているのは、
「キリストのからだ」である教会の「かしら」(エペソ5:23)の御心を行うためです。
すなわち、私たちは、「神の国の働き」に具体的に携わるために、
「キリストのからだ」である教会に召され、「賜物」を用いて、互いに仕え合うのです。
聖書は、一致することの重要性を強調しています。Ⅰコリント1:10。エペソ4:3。ピリピ2:2。
私たちは、共に召された兄弟姉妹たちと心と力を合わせて、教会を建て上げ、
教会を通して「神の国の働き」をこの地上で進めていかなくてはならないのです。
神様は、私たちが神様に全てを明け渡すようにと招いておられます。ローマ12:1。
イエス様は、「仕えるため」そして「与えるため」に来られました。マタイ20:26-28。
イエス様は、収穫の「働き手」を必要としておられます。
今、私たち一人一人が主の「働き手」として立ち上がろうではりませんか。
Filed under: 伊藤正登牧師