24.9.1.

一般的に、「へりくだる」ということは、「自分自身を低くする」ということと言える。しかし、「自己卑下」とは異なる。Cf.コロ2:18。自分は罪深く、愚かで、無力な者であるとあまりにも卑下し過ぎることは、へりくだることではなく、「へりくだり」という仮面を付けた「高慢」でしかない。「主の御前でへりくだる」とは、どのようなことか。

1.主を認めること

主に対して高ぶるということは、私たちを造られた創造者なる神を神として認めず、神を無視して自分の思いに従って(自己中心に)生きること歩むということ(詩10:4)。そして、そのような人生には、神の祝福はない。Cf.ロマ3:10-12,23。私たちは、私たちを造られた創造者なる神を神として認め、自分の人生の主として敬わなければならない。自分が人生の主なのではなく、神が私たちの人生の主なのである。「主の御前にへりくだる」ということは、このように創造者なる神を神として、また主として認めること。

私たちは、自分の人生のハンドルを握っていて、どこにでも好きな所に行くことが出来る。しかし、問題は、それが本当に正しい道かどうかということ。自分で正しいと思っていても、もしかしたら間違っているかもしれない。私たちには、人生の良いナビゲーター(案内人)が必要。それは、主ご自身。私たちが正しい道にまっすぐに導かれるためには、私たち自身と私たちの人生を、全てナビゲーターである主に明け渡すことが必要。自分のビジョン、夢や目標、やりたいことに固執してしまうなら、正しい道へと導かれない。聖書は、神を認めて歩むようにと教えている。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行くところどこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴3:5-6 )

2.主を信頼すること

「主の御前にへりくだる」ということは、主を信じ、主に信頼し、全てを主に委ねること。Ⅰペテ5:6に「神の力強い御手の下にへりくだりなさい」とある。それに続く7節には「あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」とある。私たちの人生には、様々な苦しみや悲しみがある。そのような時こそ、主を見上げ、主に信頼し、全てを主に委ねることが必要。なぜなら、主は、私たちを守り、支え、助け、導いて下さるお方だから(詩62:1-2,8)。思い煩っているということは、自分の知恵や力で何とかしようとしているということ。それは、主に信頼出来ていないということ。自分の知恵や力に頼るのではなく、主に信頼し、全てを主に委ねることが必要(詩46:10)。

信頼するということは、どれだけ待つことが出来るかということによって測られる。主は、へりくだる者を「ちょうど良い時に」高くして下さる(Ⅰペテ5:6)。しかし、問題はその「ちょうど良い時」がいつなのか分らないということ。いつまで待たなければならないのか分らないことほど辛いことはない。時として、忍耐しきれない、待ちきれないと感じることがある。しかしそれは、主に信頼出来ていないということであり、高慢の表れ。私たちにとっては、遅いように感じたり、何も起こっていないように見えるかもしれない。しかし、主が全てのことを知っておられ、ご支配しておられ、最善に導いて下さることを信じ信頼することが大切。主が最善の時に、最善を成されると信じ、主に信頼し全て委ねる。Cf.ヘブ10:36ハバ2:3

3.主に従うこと

「主の御前にへりくだる」ということは、主に従うこと。すなわち、主の御言葉、主の御心に「はい、主よ」と従うこと。主に「へりくだり、従います」と言いながら、「いいえ、それは出来ません」と拒むのは、矛盾することであり、へりくだっているということではなく、高ぶっているということ。

人は、プライドがあると、なかなか神に従うことが出来ない。重い皮膚病を患っていたシリヤの将軍ナアマンは、預言者エリシャに癒しを求めた。エリシャは、ナアマンにヨルダン川に7回浸かるようにと言っただけであった。ナアマンは、プライドのゆえに従えず、癒しを受け損なった。しかし、彼のしもべの進言に従ってヨルダン川に入ると、完全に癒された。彼は、自分のプライドという鎧を脱ぎ捨てて従うことによって癒された。Ⅱ列王5:1-14

従順とは、主が言われたことに何でも無条件に、ためらうことなく従うこと。アブラハムは、主の言葉に従い、約束の地に行き(創12:4)、イサクをささげた(創22:1-10)。ノアは、主に言われた通り全て従い箱舟を造った(創6:22,7:5)。従順によって表わされたへりくだりの最高の模範は、イエス・キリスト。イエスは、父なる神の御心に従って、人間の姿となってこの世界に来て下さり、私たちを救うために、十字架にかかって死んで下さった(ピリ2:3-11)。イエスは、自分の考えや感情に従ったのではなく、父なる神に従い通した。自分の考えや感情に従って歩んでいるうちは、自分が主となっているのであり、主の御前にへりくだることが出来ていない。自分の考え(計画)や感情、状況や人がどうであろうと、「はい、主よ」と従うことが大切。

 

へりくだる者には祝福が約束されている(ヤコ4:6,10 Ⅰペテ5:6)。主の御前にへりくだろう。神が人生の主であることを認め、主を信頼して主に全てを委ね、主に従って歩もう。主は、へりくだる者に恵みを授け、へりくだる者を高めて下さる。

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