創世記22:1-19

25.1.19.
「これらの出来事の後」(1)とは、直前の21章に書かれている出来事。アブラハムにイサクが与えられ(21:1-7)、女奴隷ハガルと息子イシュマエルと別れ(21:8-21)、アビメレクとの平和条約が結ばれ(21:21-34)、平安な生活を送ることが出来た時、「神はアブラハムを試練に会わせられた」(1)。それは、アブラハムが主を信頼し、主の御声に従うかどうかを試すための試練であった。アブラハムは、主の御声にどのように従ったのか。
1.アブラハムはすぐに主の御声に従った
主は、アブラハムに「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」(2)と語った。「モリヤの地」、「わたしがあなたに示す一つの山」とは、エルサレムのこと。「全焼のいけにえ」とは、いけにえの動物を殺し、焼き尽くし、主にささげること。主は、アブラハムに、最愛の一人息子イサクを殺し、焼き尽くせと命じた。
イサクは、アブラハムが年老いてからやっと与えられたか大切な一人息子。また、主は、イサクを通して、数え切れないほどの子孫を与えると約束した。もし、イサクが死んでしまったら、その約束は実現されなくなってしまう。主の言葉は、信じられない、受け入れられないような言葉だった。
しかし、「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。」次の朝早く起きると、アブラハムは、すぐに主の御声に従った(3)。ここには、アブラハムの悩み苦しむ姿は、一切語られていない。アブラハムは、主に「ちょっと待って下さい。考えさせて下さい」とためらったり「後で、状況が整ってから従います」と先延ばしにしなかった。私たちは、主の御言葉に「はい、主よ」とすぐに従っているか。色々と言い訳を言って従うことを先延ばしにしてないか。主が語られた御言葉に直ぐに従うことが大切。
2.アブラハムは主の御声を理解できなくても従った
最愛の一人息子を「全焼のいけにえとして」ささげるということは、アブラハムにとって、常識的には理解出来ないこと、受け入れられないことであった。それは、とても厳しい言葉であり、人間的には従いたくない命令であった。しかし、アブラハムは、ここで「なぜですか」と主に問いかけていない。「主よ、私が理解出来るように説明して下さい。理解出来たら従います」とは言わなかった。アブラハムは、なぜなのか理解出来なくても、主の御声に従った。
主の御言葉は、時として理解出来なかったり、受け入れられなかったりする。私たちにとって、厳しく思えたり、従うことが難しい御言葉もある。「なぜですか」と問いたくなるものもあるかもしれない。主の思いは、この世の常識や私たちの考えをはるかに超えている。Cf.イザ55:8-9。たとえ、主が語られる御言葉が自分の頭では理解出来ないようなことであったとしても、受け入れ難いこと、従えないようなことであったとしても、主が語られた御言葉のゆえに、従うのである。
自分が理解出来るからでもなく、受け入れられるからでもなく、自分の好みに関わらず、
主が語られた御言葉だから従うことは、大切な信仰姿勢である。その御言葉に従うことによって、後で分かってくることもあるし、天国に行くまで分からないこともあるかもしれない。Cf. ヨハ13:7。主は、たとえ私たちが理解出来なくても、私たちがその御言葉に従うことを求めている。
3.アブラハムは主の御声に信仰をもって従った
「三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。」(4) その時、アブラハムは、同行して来た「若い者たち」(5)に言った。「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」(5) 主の言葉に従えば、アブラハムとイサクが一緒に「戻って来る」ことは不可能。しかし、アブラハムは、必ずイサクと一緒に「戻って来る」と信じていた。ヘブル書の記者は、この時のアブラハムの信仰について語っている。「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。」(ヘブ11:19) アブラハムは、たとえイサクを「全焼のいけにえ」としてささげても、主がイサクを「死者の中からよみがえらせることもできる」と信じて、主に従った。
イサクは、アブラハムに「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか」(7)と尋ねた。アブラハムは、「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」(8)と答えました。この「備えてくださる」という言葉の直訳は「見つける」。アブラハムは、自分には今はないが、自分はまだ見ていないが、「神ご自身が全焼のいけにえの羊」を「見つけて下さる」と信じ、主の御声に従った。
アブラハムは、主が何とかして下さる、主が働いて下さると信じて、主の御声に従った。アブラハムは、人間的な視点だけではなく、主の視点を持っていたと言える。今、自分には見えないけれども、主は、将来の全てを見て、全て知っておられ、私たちの必要を備えて下さる、主が働いて下さると信じ、主の御言葉に従う。Cf.詩121:1-2。ヘブ11:1,6。
アブラハムは、最後まで主の御声に従い通した(9-10)。その時、御使いがアブラハムを止めさた (11-12) アブラハムの主に対する信仰が試され、本物であることが証明された(13)。主は、アブラハムに雄羊を備え、イサクを返され、「祝福」を与えた(16-18)。主を信頼し、主の御言葉に従う者に、主は祝福を与えて下さる。アブラハムのように、主の御言葉に直ぐに、理解出来なくても、信仰をもって従おう。ヤコ1:22。2:14,17,20,26。
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