17.6.4.

主の証人となる

使徒1:4,5,8、2:1-4

今日は、キリスト教会暦では「ペンテコステ」です。
元々「ペンテコステ」は、「五旬節」というユダヤ教の三大祭の一つでした。
「五旬節」とは、「50日目の祭日」という意味す。レビ23:15~
また、7週間経過するところから「七週の祭り」とも呼ばれました。出エ34:22、申命16:10
「刈り入れの祭り」(出エ23:16)、「初穂の日」(民28:26)とも呼ばれています。
「ペンテコステ」は、「聖霊降臨祭」とも言われ、イエス様の昇天後、
弟子たちに聖霊の注ぎと満たしが与えられたことを記念する日です。

1.父の約束を待ち望む

イエス様は、天に帰られる前に、弟子たちに「エルサレムを離れないで、
わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(使1:4)と言われました。Cf.ルカ24:49
この「父の約束」とは、聖霊が与えられるという約束でした。ヨハネ14:16,17
イエス様は、聖霊を「もうひとりの助け主」と呼ばれました。
「もうひとりの」とは、イエス様とは「別の、他の」という意味ではなく、
イエス様と「同じ」という意味での「もうひとり」です。
聖霊は、イエス様とは別の存在ではありますが、イエス様と同じお方です。
すなわち、聖霊は、イエス様と同じく、人格を持った神様です。(三位一体の第三位格)
また、「助け主」は、ギリシャ語で「パラクレートス」といい、「弁護者(法廷弁護士)」、
「慰める者」、「励ます者」、「そばに寄り添う者」、「味方となる者」という意味があります。
聖霊は、私たちに寄り添い、私たちを助け、導いて下さるお方です。Cf.ヨハ14:17
聖霊は、イエス様を信じる者の内に来て、住んで下さいます。
イエス様は、使1:4で「父の約束を待ちなさい」と言われましたが、
5節で「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」とも言われました。
「バプテスマ」とは「沈める」、「浸す」という意味のギリシャ語です。
ですから、「聖霊のバプテスマ」とは、聖霊の中に「沈められること」、「浸されること」、
すなわち「満たされること」です。
イエス様は、「聖霊のバプテスマを受け」、聖霊に満たされるようにと命じられたのです。

2.主の証人としての力を得る

なぜ、イエス様は「聖霊のバプテスマ」を求めるよう命じられたのでしょうか。
聖霊が私たちの上に「臨まれ」、聖霊に満たされる目的は、
私たちがイエス様の「証人」になるための「力」を受けるためでした。使1:8。
「証人」という言葉は、ギリシャ語では「殉教者」という言葉が使われています。
命がけで信仰を守り、福音を宣べ伝える「殉教者」になるということは、
人間的な力で出来ることではありません。聖霊の「力」が必要です。
しかし、聖霊が私たちの上に「臨まれ」、聖霊に満たされる時、
私たちは、イエス様の「証人」になるための「力」を受けるのです。
その「力」という言葉は、ギリシャ語で「デュナミス」で、
ダイナマイトの語源ともなった言葉で、大きな力を意味しています。
ペテロは、自分は決してイエス様を裏切ることはないと、確信をもって言っていました。
しかし、イエス様が捕らえられると、イエス様を置き去りにして、逃げてしまい、
イエス様との関係を問われると、3度もイエス様のことを否定してしまったのです。
このように、人間の意思や力は弱いものです。
しかし、聖霊に満たされたペテロは、命がけでイエス様のことを宣べ伝える者となり、
最後は、逆さ十字架に張り付けられて、殉教の死を遂げたのです。
ペテロは、聖霊に満たされて、力強い主の「証人」に変えられました。
私たちも聖霊に満たされる時、「力」を受け、主の「証人」となるのです。

3.エルサレムから地の果てまで

イエス様は福音を全世界の人々に伝えるようにと命じられました。マコ16:15。マタ28:19
イエス様が目ざしておられたのは、「全世界」の「あらゆる国の人々」への宣教でした。
「使徒の働き」には、福音が「エルサレム」から始まり、「ユダヤ」と「サマリヤ」、
さらに「地の果て」すなわち全世界に広まっていく過程が記されています。
この使1:8は、「使徒の働き」のテーマであり、「使徒の働き」の構成を表しています。
また、この使1:8は、イエス様が教えて下さった福音宣教の戦略でもありました。
「エルサレム」は弟子たちのいる地域、「ユダヤ」は弟子たちの国、
「サマリヤ」は国内の他の文化の人々、「地の果て」は、全世界を意味しました。
イエス様は、福音がまず自分たちがいる地域から始まり、徐々に国全体へと広がり、
さらに他の文化の人々にも伝えられ、全世界に届けられるようにと言われたのです。
ですから、私たちは、聖霊に満たされ、聖霊の力をいただき、
地域への伝道、国内宣教、世界宣教に励む教会でなくてはなりません。
しかし、教会が、自分たちの楽しみのためだけの集まりになってしまうなら、
その存在意味は失われ、与えられていた聖霊の満たしや力も失われてしまうでしょう。
私たちは、自分が本来目指すべき福音宣教から逸れて、
自分の必要や問題、自分が好むことに目を向けてしまっているからではないでしょうか。
私たちが自分の必要や問題よりも外に目を向け、福音宣教のために仕えていくなら、
いつの間にか自分の必要は満たされ、問題からも解放されていくのです。
神様は、私たちが福音宣教に参加し、その使命達成のために献身して欲しいのです。

弟子たちは、イエス様の言葉に従い、「父の約束」である聖霊の満たしを求めて、
「みな心を合わせ、祈りに専念して」(1:14)いました。
すると、ペンテコステの日に、聖霊が臨み、彼らは「聖霊に満たされ」(2:4)たのです。
飢え渇きをもって聖霊の満たしを求めるなら、神様は惜しみなく聖霊を注いで下さいます。
聖霊の満たしは、イエス様を信じ者に自動的に与えられるのではありません。
イエス様は、聖霊を求めるようにと呼びかけておられます。
ヨハネ7:37,38。ルカ11:9,13。使徒4:29-31。私たちも聖霊の満たしを求めましょう。
そして、「力を受け」て「地の果てにまで」イエス様の「証人」となりましょう。