18.10.21.
ヨタムの次に良い王となったのは、ヨタムの孫に当たるヒゼキヤです。ヒゼキヤは、どのような王だったのでしょうか。
1.主の目に悪を行ったアハズ(Ⅱ歴代28章)
ヨタムの息子アハズは、「主の目にかなうこと」(1)を行いませんでした。アハズは、北「イスラエルの王たち」(2)と同じように、主を捨て、偶像礼拝を行ったのです。アハズは、バアルの像を立て、異教の神々にいけにえをささげ、香を焚きました(2-4)。その結果、南ユダ王国は、主の祝福を失い、アラムと北イスラエル王国から攻撃され、損害を受け、多くの人々が捕虜として連れ去られてしまいました(5-6)。それは、アハズが「主を捨て去って」(6)しまったからです。
この時、アハズは、悔い改め、偶像を捨てて、主に立ち返るべきでした。しかし、彼は当時の強国「アッシリヤの王たちに人を遣わして、助けを求めた」(16)のです。それにも関わらず、エドム人が攻撃して来て、人々を連れ去ってしまいました(17)。また、ペリシテ人も攻撃して来て、南ユダ王国の町や村を奪い取ってしまいました(18)。更に、「アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルは、彼を攻め、彼を悩まし」(20)ました。アハズは、「アッシリヤの王たちに」「助けを求めた」のに、結局、彼らはアハズのために「力にはならなかった」(20)のです。「アハズは主の宮と王およびつかさたちの家から物を取って、アッシリヤの王に贈ったが、何の助けにもならなかった」(21)のです。それは、「主がユダの王アハズのゆえにユダを低くされたためであり、彼がユダでほしいままに事を行い、主に対して不信の罪を犯したから」(19)です。
それでも、アハズは、悔い改めず、「ますます主に対して不信の罪を犯し」(22)ました。アハズは、「ダマスコの神々にいけにえをささげ」(23)るようになったのです。その神々にいけにえをささげれば、自分たちをも助けてくれるだろうと考えたからです。更に、アハズは、主を礼拝するための「神の宮の器具」(24)を処分してしまいました。そして、「主の宮の戸を閉じ」(24)、人々が神殿に入れないようにしてしまったのです。また、エルサレムや南ユダ王国の全ての町々に、異教の神々の祭壇を築きました(24-25)。こうして、アハズは、「主の怒り」(25)を引き起こしてしまいました。
2.礼拝を回復したヒゼキヤ
「ヒゼキヤは二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間」(29:1)、王として治めました。ヒゼキヤは、アハズとは違い、先祖ダビデのように「主の目にかなうこと」(2)を行いました。
すなわち、ヒゼキヤは、偶像を捨て、主を求め、主だけを礼拝したのです。ヒゼキヤは、南ユダ王国が近隣民族から攻撃され、人々が連れ去られてしまったのは、「父たちが不信の罪を犯し、私たちの神、主の目の前に悪を行い、この方を捨て去って、その顔を主の御住まいからそむけ、背を向けたから」(6)であり、神殿の「玄関の戸を閉じ、ともしびの火を消し、聖所でイスラエルの神に香をたかず、全焼のいけにえをささげることをしなかった」(7)からであることを理解していました。南ユダ王国に対する「主の怒り」(8)の原因は、彼らが主を捨て、偶像を求めたことにありました。
ヒゼキヤは、衰退してしまった南ユダ王国を立て直そうとしました。ヒゼキヤが王になって最初に行ったことは、真の神への礼拝の回復でした。まず、ヒゼキヤは、閉じられていた「主の宮の戸を開き、これを修理」(3)しました。次に、ヒゼキヤは、「レビ人たち」(5)を聖別させました。そして、レビ人たちが、偶像によって汚されてしまった神殿から偶像を除き去り、再び礼拝がささげられるように神殿をきよめるようにさせました(5)。レビ人たちは、「十六日」(17)間で、「主の宮を全部きよめ」、「全焼のいけにえの祭壇とそのすべての器具、並べ供えるパンの机とそのすべての器具をきよめました」(18)。
更に、「レビ人にシンバルと十弦の琴と立琴を持たせて、主の宮に立たせ」(25)ました。また、「レビ人はダビデの楽器を手にし、祭司はラッパを手にして」(26)立ちました。神殿の祭壇に「全焼のいけにえ」がささげられると、「主の歌が始まり」(27)、「ラッパが…ダビデの楽器とともに鳴り始め」(27)ました。この賛美は、「全焼のいけにえが終わるまで」(28)続けられました。そして、「ささげ終わると」、「王」と「すべての者はひざをかがめ、伏し拝んだ」のです(29)。その礼拝の中には、「喜び」(30)が溢れていました。
「あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自身を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨てるなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます。」(15:2)
アハズは、主を捨て、偶像を求め、偶像礼拝を行ったため、主の祝福を失いました。ヒゼキヤは、偶像を捨て、主を求め、主を礼拝したので、主の祝福が与えられました。
今日、私たちが「神の神殿」(Ⅰコリント3:16)、「聖霊の宮」(Ⅰコリント6:19)です。しかし、私たちの内に、偶像を置いてしまってはいないでしょうか。偶像とは、単に木や石で造った神々ではありません。偶像は英語で「アイドル」です。アイドルとは、今日では、芸能人のことですが、本来は、「崇拝されるもの」のことです。それは、人を惹き付けるもの、熱狂させるもの、また憧れの対象となるものと言えます。金、仕事、物(家・車・服・時計・靴)、趣味、恋人や友人、学歴や名誉なども、私たちを惹き付けるもの、熱狂させるもの、憧れの対象となります。これらが、神よりも大切なものとなってしまっているなら、それは偶像(アイドル)です。それらは、決して悪いものではなく、私たちに必要なものでもありますが、それらのものは、決して私たちを幸せにするものではありません。私たちに本当の幸いを与えるのは、私たちを造り、私たちを愛しておられる主のみです。
アハズのように、主に心を閉ざし、心に偶像(アイドル)を置いてしまっていませんか。心に偶像(アイドル)があるまま、祝福を願っても、祝福は与えられません。もし偶像(アイドル)があるなら、ヒゼキヤのように、その偶像(アイドル)を捨て去りましょう。そして、自分自身を「神の神殿」、「聖霊の宮」として清め、整えましょう。そして、主に対して心の扉を大きく開き、主を賛美し、主に礼拝をささげましょう。申命6:5。
Filed under: 主を求め礼拝した王たち • 伊藤正登牧師