18.12.2.
ヒゼキヤの次に南ユダ王国の王となったのは、ヒゼキヤの息子マナセでした。しかし、マナセは、「主の目の前に悪を行った」のです(Ⅱ歴33:1-2)。マナセが死んだ後、マナセの息子アモンが南ユダ王国の王となりました(21)。アモンも、「主の目に悪を」(22)を行い、偶像礼拝をし続けました。アモンの後に南ユダ王国の王となったのは、アモンの息子ヨシヤでした(34:1)。ヨシヤは、良い王で、「主の目にかなうことを行って、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にも」(2)それませんでした。ヨシヤは、どのようなことをしたのでしょう。
1.偶像を捨て去る : 民のきよめ
ヨシヤが最初にしたことは、国中の偶像を破壊し、捨て去るということでした(3)。それは、単に偶像を取り除くとうことではなく、神の民をきよめるとい意味がありました。別の言葉では、「聖別する」という言葉になります。ただ単に悪や汚れを取り除き綺麗にきよめるだけでは十分ではありません。主にささげられ、主のものとならなければならないのです。ルカ11:24-26。
私たちクリスチャンも、キリストに対する信仰のゆえに、神の民です。Ⅰペテ2:9-10。神のもの、神の民であるにも関わらず、私たちの内に、偶像はないでしょうか。偶像とは、木や石で作った偽りの神々のことだけではありません。心の中にも偶像を秘めてしまっていることがあるのです。エゼ14:3。神よりも大切なものとなってしまっているなら、それは偶像です。心に偶像があるまま、神に祈っても、その祈りは聞かれません。もし、偶像があるなら、偶像を捨て去り、自分自身を神の民としてきよめ、神にささげましょう。エゼ14:3。ロマ12:1。
2.神殿の修理 : 礼拝の回復
次に、ヨシヤが行ったことは、「主の宮を修理する」(8)ことでした(9-10)。「主の宮」は、長年の偶像礼拝によって、荒れ果ててしまい、礼拝出来ない状態でした。ヨシヤがしようとしたことは、単に建物を綺麗に修復するということではなく、礼拝を回復するということでした。南ユダ王国の人々の心をもう一度主に向けさせ、主への礼拝へと導こうとしたのです。
今日、私たち一人一人が「神の神殿」(Ⅰコリ3:16)、「聖霊の宮」(Ⅰコリ6:19)です。神殿とは、主を礼拝する場所であり、主が住まわれる場所です。私たちは、「神の神殿」、「聖霊の宮」として、主を礼拝する者として召されているのです。そして、私たちが真心から主を賛美し、礼拝する時、そこに主が臨まれます。詩22:3。礼拝とは、単なる形式ではなく、プログラムでもなく、心から主を愛し、慕い求め、主の臨在の中で、主と親しく交わることです。そして、主の臨在のある所に、主の恵みが注がれるのです。主は、「霊とまことによって礼拝する」(ヨハ4:24)、「礼拝者」(ヨハ4:23)を求めておられます。
3.律法の発見 : 御言葉への従順
神殿が修復工事されていた時、「モーセを通して示された律法の書」(14)が発見されました。偶像礼拝が盛んに行われていた時代、「律法の書」は、忘れ去られていました。その「律法の書」は、早速、ヨシヤのもとに持って行かれ、読まれました。ヨシヤは、自分たちが主の言葉に従わず、背いて来たことを、心から悲しみました(19-21)。ヨシヤは、「主の宮で発見された契約の書のことばをみな」(30)、人々に読み聞かせました。そして、「主の前に契約を結び、主に従って歩み、心を尽くして、主の命令と、あかしを守り、この書物にしるされている契約のことばを行うことを誓った」(31)のでした。こうして、ヨシヤは、南ユダ王国の人々を御言葉に従順な者とさせたのです。
私たちも、聖書をどこかにしまい込んでしまい、聖書を読むことを怠ってはいませんか。毎日、ごはんを食べるように、毎日、聖書を読まなくてはなりません。また、御言葉は、実行しなければ意味がありません。ヤコ1:22。聖書をただ読むだけではなく、そこに書かれている御言葉に聞き従いましょう。主の御言葉を喜びとし、それを心に留めるなら、祝福されます。詩1:1-3。
4.過越しの祭りの回復 : 救いの原点に帰る
マナセとアモンの時代に、再び、過越しの祭りがなされなくなりました。そこで、再び「ヨシヤはエルサレムで主に過越しのいけにえをささげた」(35:1)のでした。過越しの祭りは、主がイスラエルの民をエジプトから解放して下さったことを記念して行う祭りです(出12章)。主は、イスラエルの民をエジプトから救い出すために、10の災いを起こされました。その10番目の災いは、人間も家畜も全ての「初子」(11:5)が死ぬというものでした。しかし、「傷のない一歳の雄」の「羊」(12:5)の「血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに」(7)に塗るなら、主はその家を「過ぎ越され」(23)、その家の初子は死ぬことはありませんでした。このほふられた羊は、「過越しのいけにえ」(11)と呼ばれました。
私たちにとって過越しの祭りは、「聖餐式」です。過越しは、イエスの十字架の死による救いを表すものであったのです。私たちは、聖餐式で、イエスが私たちを罪から救うために、「過越しのいけにえ」となって、十字架にかかり死んで下さったことを覚えるのです。つまり、聖餐式は、私たちの救いの原点に帰るということなのです。私たちは、キリストが私たちを救うために十字架にかかり、死んで下さったことを忘れてはならなのです。Cf.黙2:4-5。
ヨシヤについて、次のように書かれています。「ヨシヤはイスラエル人の全地から、忌みきらうべきものを除き去り、イスラエルにいるすべての者を、その神、主に仕えさせた。彼の生きている間、彼らはその父祖の神、主に従う道からはずれなかった。」(34:35) 私たちも、自分自身を神の民としてきよめ、心から主を礼拝する者となり、御言葉に聞き従い、救いの恵みを常に覚える者となりましょ
Filed under: 主を求め礼拝した王たち • 伊藤正登牧師