五千人給食
マルコ6:34-44

210822
今はコロナ禍のため、仕事が減って給料が下がり、生活が厳しくなり、気持ちが落ち込んでしまう人もいます。このような状況では、私たちは主を求めることよりも、自分の生活のことだけを考えてしまいます。少しでも生活が楽になることだけを求めてしまうでしょう。しかし、聖書はもっと大切なことを教えています。御言葉に耳を傾けましょう。
1.イエスは御言葉によって信仰を強めてくださる
イエスが病人たちを癒すのを見聞きした人たちは、イエスを救い主(メシヤ)だと期待するようになり、イエスのところに集まってきました(ヨハネ6:2)。
そのころ、信仰的な希望を与えるはずの宗教指導者(律法学者・パリサイ人)が、人々にたくさんの戒め・律法を押し付けていました。人々は神を信じたいのに神を見つけることができず、神から切り離されたような状態でした。希望のない状態であり、それは「羊飼いのない羊のよう」でした(マルコ6:34)。彼らを見たイエスは、深く憐れみ、彼らに教え始めました。
イエスは、このような心の飢え渇く者たちに、御言葉をもって励まされました。なぜなら、神の御言葉を聞くことで、神に対する信仰が増し加わるからです(ローマ10:17)。信仰があるなら、神がおられることと、神を求めるなら報われると信じることができます(ヘブル11:6)。まだ見ていないことでも確信できるのです(ヘブル11:1)。ですから、信仰によって私たちは生きる希望と喜びを持つことができるのです。
私たちは様々な心配のために、自分の生活のことばかりに気を取られ、神を求めることをおろそかにしてはいませんか。生活の心配も必要ですが、まず神を求めましょう。礼拝に参加したり、祈り会に参加したり、祈ったり、聖書を読んだりしましょう。
2.イエスは求める者の生活を守られる
男だけで5千人、全員で1万人くらいの群衆がイエスのみことばを聞いていました。やがて時刻も遅くなり、群衆は食べ物もなく、空腹でした。神の御言葉によって霊的に満たされていても、お腹が満たされてはいませんでした。そこで、イエスは弟子たちに、群衆に食べ物を配るように言いました(マルコ6:37)。しかし、弟子たちは五つのパンと二匹の魚しかもっていませんでした。これは少年がイエスにささげた一人分の食事量でした(ヨハネ6:9)。しかし、イエスはこのパンと魚を用いて、群衆が満腹するほどの食事を与えてくださったのです。
イエスはご自分を求める者たちの食事のことを気にかけてくださいます。食事のことということは、生活の心配をされるということです。これは4000人給食のときも同じです(マタイ15:32)。
私たちが主を求め、御言葉を聞く信仰生活をもっているなら、主ご自身が私たちの実際的な必要や生活の心配をしてくださるのです。主は私たちに仕事と収入を与え、私たちを養ってくださいます。ですから、私たちは安心して主を求めましょう。神を第一にするなら、必要は満たされるのです(マタイ6:33)。神に信頼して歩むなら、神の祝福を受け、生活も守られるのです(エレミヤ17:7-8)。
3.イエスは仕える者に現実的な報いも与えられる
この出来事の直前には、12人の弟子たちは食事をする暇もないほど忙しい状況でした(マルコ6:31)。しかし、このときさらに、弟子たちは1万人もの人々の食事のために働きました。おそらく自分たちは食事すらできなかったでしょう。しかし、群衆が食事を終えたとき、残ったパン切れは12のかごいっぱいになりました。これで12人の弟子たちは十分な食糧を得ることができました。イエスに仕える者には神が報いてくださるのです(ヨハネ12:26)。主の山に備えがあるのです(創世記22:14)。
私たちも、イエスの弟子たちのように、主に仕えたいものです。しかし、それは自分だけの力でできるようなものではありません。その力は主から来るのであり、聖霊から来るのです(使徒1:8)。聖霊によって私たちは喜んで主に仕え(詩篇51:12)、人々に福音を届けることができるのです。主を求め、聖霊に満たされ、主に仕えましょう。
コロナなどの困難によって、自分の生活のことばかり考えていませんか。もっとも大切なことは、主を求めることです。私たちが主を求めるなら、御言葉を通して心に喜びと希望が沸き上がり、さらに生活面でも守られるのです。さらに、私たちは聖霊に満たされ、主に仕え、人々に福音を届けてゆきましょう。
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