20.8.9.

15章では、本当に主を信じることが出来るかという信仰のチャレンジを受けます。

この箇所から、3つのことが教えられます。

1.主の励ましを受けたアブラム (主は私たちを守って下さる盾)

「これらの出来事の後」、主はアブラムに現れ、「恐れるな」と語りかけられました(1)。「これらの出来事」とは、14章のメソポタミヤ軍との戦いの出来事と考えられます。アブラムは、強大な敵軍に勝利し、ロト一家を救出することが出来ました。しかし、敵が再び攻めて来るかもしれません。もっと強大な軍隊で来るかもしれません。そう考えると、恐れや不安でいっぱいになります。不安で眠れなかったかもしれません。

しかし、主はアブラムに「恐れるな。わたしはあなたの盾である」(1)と語りかけました。この「恐れるな」という言葉は、聖書で最初に登場する「恐れるな」です。人生の様々な問題や困難に直面する時、恐れや不安を感じることがあります。しかし、主は、聖書の中で常に「恐れるな」と語っておられます(イザ41:10)。

では、何を根拠に恐れないでいられるのでしょうか。主は、アブラムに「わたしはあなたの盾である」と語られました。すなわち、主がアブラムの「盾」となって下さり、守って下さることです。ですから、どのような強大な敵が襲って来ても、恐れる必要はないのです。主が私たちの「盾である」ということが、恐れないでいられる根拠なのです。ダビデは、次のように告白しています。「はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、このを呼び求めると、私は、敵から救われる。」(詩18:2-3) また、ダビデは「恐れのある日に、私は、あなたに信頼します」(詩56:3)と告白しています。私たちも、恐れや不安にある時、私たちの「盾」である主に信頼しましょう。主が「盾」となって私たちを守って下さいます。

2.主を信じたアブラム (信仰によって義と認められる)

主は、アブラムに「あなたの受ける報いは非常に大きい」(1)と語られました。それに対し、アブラムは主に「私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか」(2)と問い掛けました。さらに、「あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるのでしょう」(3)と皮肉交じりに言っています。跡継ぎがいない場合、奴隷の一人が財産管理人となり、主人の老後の面倒を見ました。そして、主人が亡くなった後は、その奴隷が財産をもらうことになっていました。アブラムの場合、その奴隷は、「ダマスコのエリエゼル」でした。

それに対して、主は「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」(4)と明言されました。さらに主は、「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」(5)「あなたの子孫はこのようになる。」(5)と約束されました。しかし、アブラムもサライも年老いていて、子どもが生まれる可能性はありませんでした。それでも、アブラムは「主を信じ」、「主はそれを彼の義と認められた」(6)のです。

「義と認める」とは、「正しいと認める」ということですが、それは、単なる「道徳的、法律的な正しさ」を意味しているのではありません。「義」とは、「ある一定の基準に合致した状態」のことです。すなわち、アブラムは「主が求めている信仰の基準に達した」のです(ロマ4:19-22)。さらに、アブラムが信仰によって「義と認められた」ことは、私たちの救いのひな型となりました(ロマ4:23-24)。「主イエスを死者の中からよみがえらせた方」(ロマ4:24)を信じるなら、私たちも「その信仰を義とみなされるのです」。信仰による義認です。こうしてアブラムは「信じて義と認められるすべての人の父」(ロマ4:11)になったのです。主に不可能はありません。不可能な事であっても主を信じなければなりません(ヘブ11:6)。

3.主との契約を結んだアブラム (主は約束を実現される)

主は、アブラムに「この地を所有としてあなたに与える」(7)と言われました。それに対して、アブラムは主に問い掛けました。「それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」(8) アブラムは、土地が与えられるということの証拠、保証が欲しかったのです。主は「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひな」(9)を持って来て、鳥以外を「真っ二つに切り裂き、その半分を向かい合わせに」(10)するように言われました。これは、古代の遊牧民が契約を結ぶ時の儀式でした。契約を結ぶ者たちが、2つに切り裂いて、向かい合わせに置いた動物の間を通りました。それは、契約を守らなかったら、自分も引き裂かれても文句は言わない、という意味です。

「日は沈み、暗やみになったとき」、「煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎ」(17)ました。「煙の立つかまど」、「燃えているたいまつ」とは、主の臨在を象徴するものでした。この契約においては、切り裂かれた動物の間を通ったのは、主だけでした。それは、主ご自身がこの契約を果たして下さるということです。これは、私たちの救いのひな型でした。私たちも、自分の行いによってではなく、イエスを信じるだけで救っていただけます。その契約のしるしは、引き裂かれた動物ではなく、十字架で死なれたイエスだったのです。

主は「この地をあなたの所有としてあなたに与える」と言われましたが、アブラムの子孫が実際に所有するのは、彼らが「自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられ」(13)、「そこらか出て来るように」(14)なった時、すなわち、アブラムから「四代目の者たち」(16)であると言われました。約束の地の所有は、何世代も後、ヨシュアの時代になってからでした。主の約束の実現までには困難や苦難がありますが、主は必ず約束を実現されるのです。

 

私たちも、全てを成し遂げて下さる全能の主を信じ信頼しましょう。どんなに困難なことがあっても、主が語られたことは必ず実現するのです。ルカ1:37,45。

Filed under: アブラハムの信仰の旅伊藤正登牧師