14.11.30
信じない者ではなく信じる者になる
ルカ1:5-25
神様から遣わされた御使いガブリエルは、バプテスマのヨハネの父ザカリヤに現れ、彼に子供が与えられることを告げ知らせました。
しかし、そのメッセージに対するザカリヤの応答は、否定的なものでした。
この聖書箇所からどのようなことが教えられるでしょうか。
1.主は私たちの祈りを聞いておられる
ザカリヤは「くじ」引きによって、神殿に入り香をたく役割が与えられました。
すると突然、神殿で奉仕していたザカリヤの前に御使いガブリエルが現れたのです。
御使いは、驚き恐れるザカリヤに、さらに驚くべきことを告げ知らせました。
それは、年老いたザカリヤと妻エリサベツに男の子が与えられるということでした。
その子は神様に特別に選ばれた子であり、救い主の道備えをする者となるというのです。
この時、御使いはザカリヤに「あなたの願いが聞かれたのです」と伝えました。
彼らは結婚した時から、ずっと子供が与えられるように祈ってきたことでしょう。
しかし、どんなに祈っても、その祈りの答えはなかなか与えられませんでした。
それでも、神様から心が離れてしまうことなく、熱心に神様に仕えてきたのです。ルカ1:6。
彼らは神様に仕えながらも、子供を願い求め続けてきたことでしょう。
そしてとうとう子どもが与えられないまま年を取ってしまい、もう子どもが産めない体になってしまったのです。
ザカリヤは「神様は祈りを聞いて下さらなかったのだ」と思っていたことでしょう。
しかし、神様は彼らの祈りをしっかりと聞いておられ、覚えておられたのです。
私たちもどんなに祈っても、なかなかその祈りの答えが得られないと、「神様は祈りを聞いて下さらないのだ」と思い込んでしまうことはないでしょうか。
また、「どうせ祈りは聞かれない」と諦めて祈ることをやめてしまったり、自分でも祈っていたことについて忘れてしまっていることはないでしょうか。
神様は私たちの祈りをちゃんと聞いておられ、それを覚えておられるのです。
そして、私たちの祈りは、神様の御前に積み上げられているのです。
ダニエルは、三週間、断食して祈りましたが、神様から何の答えもありませんでした。
その後、御使いはダニエルに彼の祈りが聞かれていたことを告げました。ダニエル10:12。
神様は御使いを通して、コルネリオにも次のように語られました。
使徒10:4。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」
イエス様も言われました。マルコ11:24。「だからあなたがたに言うのです。
祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」
私たちも神様が祈りを聞き、答えて下さることを信じて、祈り続けましょう。ヘブル11:6。
2.不可能にではなく全能の主に信仰の目を向ける
ザカリヤは折角神様から「あなたの願いが聞かれたのです」、すなわち「あなたに子供が与えられます」と語られても、その言葉を素直にそのまま信じ、受け入れることが出来ませんでした。
その理由は、「私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」(ルカ1:18)というものでした。
ザカリヤは自分たちがもう子供を産めない体であるという、自分たちの能力の限界、自分たちの無力さばかりに目が向けてしまっていたのです。
そのため、ザカリヤは「自分たちにはできない」と思い込んでしまっていたのです。
ザカリヤは祭司でしたから、聖書の話もよく知っていたはずです。
聖書の中には、不妊の女が奇跡的に子供を授かるという話がいくつもあります。
特に、アブラハムが100歳、妻のサラが90歳の時にイサクを生んだ話は有名です。
ザカリヤもその話を知っていたはずです。
しかし、ザカリヤにとって、その話は聖書の中の単なる話であり、昔話であり、自分の人生とは無関係なものでしかありませんでした。
ザカリヤは神様に信仰の目を向けることが出来なかったのです。
私たちも聖書の中の神様の偉大な御業についてよく知っていても、神様が自分の人生にも働いて下さると信じ期待出来ないということはないでしょうか。
ザカリヤは御使いに言いました。「私は何によってそれを知ることができましょうか。」
これは「どんな根拠でそんなことが信じられるのですか」という意味です。
すなわち、彼は「エリサベツが男の子を産むという証拠は何か」としるしを求めたのです。
ザカリヤはその不信仰のゆえに、子供が生まれるまで、口がきけなくなるという罰が与えられてしまいました。ルカ1:2。
皮肉にも、これがザカリヤに与えられた「しるし」となったのです。
御使いは、ザカリヤがこれ以上不信仰な告白をしないように彼の口を封じたのです。
否定的な言葉は、神様の奇跡を妨げてしまうからです。
私たちが告白する否定的な言葉が、神様の祝福を奪ってしまうのです。
イスラエルの民は、荒野での旅で、約束の地を目の前にして不信仰になり、その不信仰な告白通り、約束の地へは入れませんでした。民数13,14章。ヘブル3:7-11。
私たちも不可能な現実のみに目を向けるのではなく、全能なる神様に信仰の目を向ける者となりましょう。エペソ1:19。
御使いは、ザカリヤに「私のことばは、その時が来れば実現します」(ルカ1:20)と言いました。
神様の御業は時が来たら必ず現されるようになるのです。
神様が私たちの祈りを聞き、必ず答えて下さることを信じましょう。
また、現実的、常識的にどんなに不可能であっても、不可能を可能にされる全能の神様に信仰の目を向け、神様を信じ、神様に期待しましょう。
この後で、御使いガブリエルはマリヤにも現れ、イエス様の誕生を告げました。
御使いはマリヤに「神にとって不可能なことは一つもありません」(1:37)と語り掛けました。
また、イエス様の復活を信じなかったトマスにもイエス様は語られました。
ヨハネ20:27。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
私たちも信じない者ではなく、信じる者になりましょう。
Filed under: 伊藤正登牧師