博士たちの礼拝
マタイ2:1-12
22.1.2.
キリストが誕生した時、「東方の博士たちがやって来」(1)ました。「東方」とは、かつてバビロニア帝国のあったメソポタミア地方のことです。また「博士たち」は、ギリシヤ語で「マゴス」と言い、「星占いの学者たち」のことです。「博士たち」は、「ユダヤ人の王」である「キリスト」の誕生を知らせる星を見つけ、キリストを礼拝するために遠く離れた東の国からエルサレムまでやって来ました。この「博士たち」から、礼拝の姿勢について学ぶことが出来ます。
1.犠牲を払って主を礼拝に行く(礼拝には犠牲が伴う)
何千キロにも及ぶ旅には、多くの時間と労力と費用がかかったことでしょう。また途中、山賊や強盗が待ち伏せしていたり、様々な危険が伴ったことでしょう。「博士たち」は、このような困難や危険を覚悟し、多くの犠牲を払って旅立ったのです。わざわざエルサレムまで行かなくても、東の国で礼拝することも出来たでしょう。しかし、彼らは、実際にキリストの前に進み行き、礼拝することを願ったのです。
主を礼拝しようとする時、何らかの困難や犠牲を伴うことがあります。今日でも、主を礼拝するために、時間、お金、労力をかけて教会に集まります。時には、自分の仕事や自分のやりたい事を中断したり、犠牲にしなければなりません。
新型コロナの感染拡大によって、緊急事態宣言が発出され、多くの教会が一緒に集まることを避け、ネットで礼拝の動画を配信するようになりました。これによって、今まで教会に来ることが出来なかった人たちも、礼拝に参加することが出来るようになりました。
しかし、その一方で、教会や礼拝の本質が見失われてしまうという問題も生じました。教会は、ギリシヤ語で「エクレシア」と言い、「神に召し集められた者たち」のことであり、
神の民が共に集まることが教会の本質なのです。また、礼拝は、単に個人的なものではなく、神の民が共に集まって行うものです。しかし、ネット礼拝が普及することによって、「共に集まる」という教会や礼拝の本質が失われてしまいました。勿論、ネット礼拝が必要な人たちもいます。しかし、単に自分の都合を優先するため、ネット礼拝を利用する人たちもいるようです。そのような姿勢は、礼拝する者として相応しいと言えるでしょうか。へブ10:25。
2.へりくだり主の前にひれ伏す(礼拝の目的は主を高めること)
「博士たち」は、幼子のイエスの前に出て「ひれ伏して拝んだ」(11)と記されています。この「ひれ伏して拝んだ」という言葉は、ギリシヤ語では「プロスクネオ」といい、ヨハ4:23-24などでは「礼拝する」と訳されています。「ひれ伏して拝んだ」という行為は、単なる挨拶ではなく、神を礼拝する姿勢であったのです。
礼拝とは、「主の前にひれ伏す」ということです。即ち「主の前にへりくだる」ことです。そして、「主の前にへりくだる」ということは、「主を高く上げる」ということです。即ち、主がどんなに偉大なお方であるのか、恵み深いお方であるのかを覚え、主を賛美し、ほめたたえることです。詩103:1-5、136:1-26、150:1-2 。
しかし今日、礼拝の目的が、主を高めることではなく、自分自身を高めることになってしまっていないでしょうか。即ち、自分が霊的に恵まれること、感情的に満たされること、自分の可能性や能力が引き出されることが、礼拝の目的となっていないでしょうか。そして、自分が期待しているような恵みを得ることが出来ない人は、「今日の礼拝は恵まれなかった。つまらなかった」と不満を言うのです。それは、あまりにも自分中心、人間中心の考え方による発言です。
また教会も、人が恵まれる礼拝、満たされる礼拝、高められる礼拝だけを求めていくと、神を喜ばせる礼拝ではなく、人を喜ばせるための礼拝を求めるようになっていきます。そうなると、それは礼拝ではなく、単なるエンターテイメントになってしまいます。自分が恵まれようが、恵まれまいが、主を高く上げることが礼拝なのです。私たちが主を高め、主をほめたたえる時、主の恵みが私たちに注がれるのです。ヤコ4:6。
3.主に最高のものをささげる
「博士たち」は、キリストの前に「黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげ」(11)ました。礼拝とは、私たちが何かを受けることではなく、私たちが主にささげるものです。「博士たち」の「贈り物」は、イエスがどのようなお方であるかを示すものでした。「黄金」はイエスが「王」であることを、「乳香」はイエスが「神」であることを、「没薬」はイエスが十字架の死による「贖い主」であることを示しています。
大切なポイントは、それらの「贈り物」は、非常に高価なものだったということです。「博士たち」は、価値の低いつまらないものではなく、「最高のもの」をささげたのです。彼らの「贈り物」は、キリストがどんなに価値あるお方か、貴いお方かを表わしています。「博士たち」は、キリストが高価な「贈り物」に相応しいお方であると知っていたのです。
旧約時代には、礼拝には必ずささげ物が携えられなければなりませんでした。ささげ物なしに、礼拝は成り立ちませんでした。申16:16-17。Cf.Ⅱサム24:24。それぞれが自分たちの羊や家畜の群れの中から、傷のない一番良いもの、「最高のもの」を選んでささげました。今日、動物のささげ物はもはや必要なくなりました。イエスが十字架で、完全ないけにえ、「最高のもの」としてささげられたからです。
今日は、礼拝において、賛美、祈り、献金がささげられています。主へのささげ物は、「最高のもの」でなくてはなりません。私たちが主にささげるべき最高の贈り物とは自分自身です。ロマ12:1。それは、日々、主の御言葉に聞き従って歩むということです。
私たちも「東方の博士たち」のように、主を礼拝するために、時間、お金、労力をささげて、共に教会に集いましょう。主の前にひれ伏し、主の偉大さと恵み深さを覚え主をたたえ、主を高く掲げましょう。賛美も祈りも献金も、自分に出来る最高のものをささげましょう。そして、何よりも自分自身をいけにえとして主にささげましょう。黙5:12。
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