17.5.7.

収穫の働き手となる

マタイ9:35-38

イエス様の情熱、またイエス様が私たちに願っておられることとは何でしょうか。

1.イエス様の眼差しで人々を見る

イエス様は、「羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている」人々を見て、
「かわいそうに思われた」のです。
「かわいそうに思われた」とは、「心に深い痛みを覚えた」ということです。
私たちは、世の人々に対し、どれだけイエス様と同じ心の痛みを感じているでしょうか。
世の中には、人生で成功し、満足しているように見える人がいるでしょう。
しかし、どんなに成功し、満足しているように見えても、
キリスト無しの人生は空しく、本当の喜びも満足も希望もありません。
世の中の人々は表面的には、何の問題もないように見えるかもしれませんが、
本当は、心が傷ついていたり、悩んでいたり、疲れてしまっているのです。
日本のクリスチャン人口は全人口の1%未満です。
逆に言うと、日本の99%以上の人たちは、生きる意味を見出せず、
何の希望も喜びもないまま、空しく人生を送り、地獄へと向かっているのです。
実際に、毎年、多くの人々が自らの命を絶っています。
私たちは、この現実について、どのように感じているでしょうか。
私たちは、自分が救われているということだけでは満足出来ず、
更に自分が恵まれること、祝福されることだけを求めているクリスチャン、
自己中心的なクリスチャンとなってしまってはいないでしょうか。
自分の必要、自分の問題、自分の生活、自分の幸せだけが優先事項となり、
キリスト無しに空しく、滅びに向かっている人々を忘れてしまっていないでしょうか。
イエス様を知らずに死んでいく多くの人々に対して無関心になってはいないでしょうか。
私たちも、イエス様の眼差しをもって世の人々を見ることが必要です。

2.父なる神様の御心を行う

イエス様が人々を見て「かわいそうに思われた」ことは、父なる神様の御心の表れでした。
父なる神様は、憐み深いお方です。詩篇86:15
神様は、神様から離れ、神様に背を向け、罪の中を自分勝手な歩みをしている人間を、
怒ったり、見捨てたりせずに、心を痛め、「かわいそうに」思っておられるのです。
父なる神様は、罪人が一人も滅びることを望んでおられません。ヨハネ3:16
全ての人が、救われることを望んでおられます。Ⅰテモテ2:4。Ⅰペテロ3:9
イエス様が世に来られたのは、この父なる神様の御心を行うためでした。ヨハネ6:38
そして、イエス様は、父なる神様の御心を成し遂げるため、十字架にかかられました。
すなわち、人間を救いに導くために、十字架で死なれたのです。マタイ26:39
父なる神様の御心とは、「全ての人が救われること」です。
クリスチャンであるなら、誰でも神様の御心を求めています。
多くのクリスチャンが「神様の御心を行う者となりたいです」と言っています。
しかし、その御心とは、自分の事柄に関することだけに限定されていないでしょうか。
どの学校に入るのか、どんな仕事をするのか、どこで暮らすのか、誰と結婚するのか。
そして、自分の好きな事、やりたい事、益になる事が与えられるのを待っています。
そのため、多くのクリスチャンは、神様が意図しておられることを行っていないのです。
神様の御心とは全く関係のないことに忙しくしているのです。
その結果、霊的成長が止まり、収穫のための動きが出来なくなってしまっているのです。
私たちが本当に父なる神様の御心を求め、行おうとするならば、
まだ救われていない人々を救いに導くという働きに携わらなくてはなりません。

3.収穫の働き手が必要とされている

日本のクリスチャンは未だに少数ですが、イエス様は「収穫は多い」と言われました。
すなわち、イエス様は、救われる人々が大勢いると言っておられるのです。
そして、「働き手が少ない」と言われました。
人々に福音を伝え、イエス様の救いに導くための「働き手が少ない」のです。
イエス様は「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われました。
すなわち、必要なのは、「働き手」であるということです。
教会に「働き手」となる人々がいると、強力にミニストリーを展開することが出来ます。
しかし、教会の殆どの人たちが、何もせずにただ座って見ている観戦者で、
僅かな人々が一生懸命走り回り、色々なことをこなし、そして疲れ果てているのです。
そのため、人々を救いに導く働きが進んでいかないのです。
クリスチャンであるなら、「主に従います」、「私を用いて下さい」と誰でも願います。
しかし、実際に何かを頼まれると、「いいえ、それは出来ません」と言って拒むのです。
結局、従うべき奉仕を自分で選り好みしてしまうのです。
そして、色々な言い訳を並べあげて、自分が出来ないということを正当化しようとします。
結局、そういう人たちは、神様に従おうとしていないのです。
イエス様の招きを断る正統的な理由はいくらでもあるかもしれませんが、
「はい、主よ」と、イエス様の招きに直ぐに応答することが大切です。
教会を建て上げること、福音宣教を進めていくことは、簡単なことではありません。
そこには、多くの困難があり、犠牲を払わなければならないこともあるでしょう。
責任を持ちたくない、犠牲を払いたくない、自分とは関係ない、他の人がやればいい、
自分さえ救われて天国に行ければいい、自分だけ神様の祝福を受け恵まれていればいい、
というような自己中心な思いを持たないで下さい。
共に教会を建て上げ、共に福音宣教のために「働き手」として立ち上がるのです。

イエス様は「目を上げて畑を見なさい。
色づいて、刈り入れるばかりになっています」と言われました。ヨハネ4:35。
世の人々は、イエス様の話を聞いて、救われようとしているということです。
「収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われたイエス様の声に応答し、
一人一人が「働き手」として立ち上がることが求められています。
今、私たち一人一人が収穫の「働き手」として立ち上がろうではありませんか。

Filed under: 伊藤正登牧師