安息日の祝福
出エジプト20:8-11
22.3.20.
「安息日」の意義と祝福について、どのように「安息日」を守るのか学びましょう。
1.安息日の制定
出20:8-11の十戒の第4戒に、「安息日」について書かれています。ここには、1週間の内、「六日間、働いて」、「七日目」は「安息日」(シャバット)なので、「どんな仕事もしてはならない」と命じられています。「安息日」は、1週間の「七日目」ですので、土曜日となります。しかし、ユダヤ暦では、1日は日没から翌日の日没までとなっていますので、「安息日」は、金曜日の日没から土曜日の日没でとなります。
また、「聖なる日」とするということは、この日を他の曜日と区別して、世俗のことや、自分のために使うのではなく、神にささげるということです(レビ23:3)。今日も、律法を厳格に守っているユダヤ教徒は、「安息日」を厳格に守っています。信仰熱心なユダヤ人たちは、「安息日」には仕事をしません。車にも乗らず、料理も作らず、電気製品も使用しません。政府機関、役所、銀行、交通機関も全て休みとなります。この日は、ユダヤ教会堂(シナゴーグ)へ行って礼拝します。このように、ユダヤ人は、「安息日」を他の週日と区別し、特別な日として守っています。
キリスト教会は、日曜日を「安息日」として守るようになりました。それは、イエスがよみがえられたのが「週の初めの日」、すなわち日曜日だったからです(マタ28:1、マル16:2、ルカ24:1、ヨハ20:1)。初代教会のクリスチャンたちは、イエスの復活を記念して、日曜日に共に集まり、主を礼拝するようになったのです(使20:7、Ⅰコリ16:2)。
2.安息日を守る意義
① 創造者なる神の主権を認める
神は、6日間で天地万物を創造され、7日目に完成を宣言し、創造の業を終えました。それゆえ、私たち人間も6日間は働いて、7日目にはその仕事を止め、神の創造の業を覚え、創造者なる神を礼拝するのです(出20:11)。そして、創造者なる神を礼拝するということは、私たちが神なのでも、主なのでもなく、創造者なる神が私たちの神であり、私たちの主であるということを認めることなのです。聖日に礼拝を守ることは、神の主権に立ち返り、神の主権を認めることなのです(詩100:1-3)。
② 神の救いの御業を覚え感謝する
申5:15には、「安息日」を守るもう一つの理由が記されています。「安息日」は、エジプトでの奴隷状態から解放されたことを覚え記念する日です(申5:15)。ユダヤ人たちは、「安息日」毎に、自分たちが解放されたことを覚え、礼拝しているのです。クリスチャンにとっては、イエス・キリストの救いの御業を覚えることでもあります。イエスが私たちを罪と滅びから救い出すため、十字架にかかって死なれ、復活されたことを覚え、礼拝するのです。ですから、キリストの十字架の御業をえるため、礼拝の中で聖餐式が行われます。
③ 神の民としてのしるし
「安息日」は、イスラエルが神の民であるということの「しるし」でした(出31:13,17)。イスラエルの人々は、「安息日」を守ることによって、自分たちが神の民であることを証していたのです。クリスチャンも、聖日の礼拝を守ることによって、自分たちが神の民であることを証しているのです。私たちは、聖日の礼拝毎に、自分たちが神の民とであることを覚えるのです。
3.安息日を聖なる日とする
私たちは、「安息日」を大切なものとしているでしょうか。私たちは律法から解放されているということで、「安息日」を軽んじ、自分の都合を優先していないでしょうか。「安息日」を守ることを諦め、守れるようにしようという努力を止めていないでしょうか。
出16:4-5。イスラエルの民が荒野の旅をしている時、主は彼らのために天からマナというパンを降らせて下さいました。イスラエルの民は、毎朝、その日一日分のマナを取りに行かなくてはなりませんでした。しかし、7日目は「安息日」なので、マナは降ることはありませんでした。ですから、6日目に二日分のマナを集めなくてはならなかったのです。これによって、イスラエルの民が主の命令に従うかどうか試されたのです。
大切なことは、「安息日」が守れるように、自分の生活を管理することです。「安息日」を中心に、一週間または一か月のスケジュールを立てます。また、「安息日」の前日は、その備えの日として、「安息日」を守るのに支障のないようすることも必要です。忙しい生活を送っていたり、異教的文化、神無しの文化の中に住む私たちにとって、「安息日」を守ることは容易ではなく、様々な戦いもあるかもしれませんが、「安息日」を勝ち取っていきましょう。しかし「安息日」を単に義務的に守るのではなく、喜びをもって守ることが大切です。イザヤは「安息日」を「喜びの日」「はえある日」と呼ぶようにと教えています(イザ58:13)。
イエスは「安息日は人間のために設けられたのです」と言われました(マコ2:27)。 「安息日」は、私たちの祝福となるために、主が備えて下さいました。「安息日」を守る者には、祝福が約束されています(イザイザ58:13-14)。Cf.イザ56:4-8。いつも忙しく働いているばかりで、「安息日」をとることがないと、体を壊してしまうばかりか、ストレスが溜まって精神的にも不安定になります。しかし、「安息日」にただ体を休めているというだけでは十分ではありません。「安息日」に共に教会に集い、主の御前に出て礼拝をささげる時、主の臨在の中、私たちの霊も魂も体も元気を回復します。喜びをもって、「安息日」を守りましょう。
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