15.08.30
宝のあるところに心もある
マタイ6:19:23、Ⅰヨハネ2:15-17
自由時間には何をしますか。自分が一番好きなことをするでしょう。なぜならそこにあなたの宝があるからです。本当にすばらしい宝とは何でしょう。
1.天の宝
マタイ6:19-23の自分の宝とは、自分が一番大事にしていることであり、価値を置いている物です。ある人は地上に宝があり、またある人は天に宝があります。
地上の宝は金銭、仕事、趣味などあるでしょう。これら自体は良い物ですが、それらを神様以上に愛しているなら、それは偶像礼拝なのです(出エジプト20:3-4、マタイ6:24)。
天の宝とは、神の国であり、神様ご自身であり、神様からの報いです。イエス様を信じ、神様を愛し、神様に仕え、神様に捧げてゆくなら、神様からの報いも大きいのです。
例えば、神様の子供となる特権は天の宝です(ヨハネ1:12)。神の国の国籍は天の宝です(ピりピ3:20)。永遠のいのちも天の宝です(ヨハネ3:16)。天国に用意された住まいも天の宝です(ヨハネ14:2-3)。
主は、イエス様を信じることによって、私たちの罪を赦し、神の子供とさせ、天国に迎えて下さり、永遠のいのちを与えて下さり、天国の住まいを用意して下さいます。ほかにもたくさんの宝を積み上げていて下さっている事でしょう。
このような天の宝を心から感謝し、神様を愛し、神様を求めていくことは、地上の生涯においても祝福となるのです(マタイ6:33)。神様を愛する者こそ豊かな財宝を手にいれることができるのです(箴言8:21)。
自分の宝があるところに自分の心もあるのです(マタイ6:21)。クリスチャンでも、世の中にあるものが大好きで、いつもそのことを求め、考えているなら、その人の宝は地上にあり、心は神様とともにありません。自分の宝が天にある人は、天に心を向け、天にあるものを求めましょう(コロサイ3:2)。
2.地上の宝は頼れない
地上の宝、世の富は、それ自体は悪いものではなく、また、これをもつことも悪い事ではありませんが、これらを愛してはなりません(例:Ⅰヨハネ3:17-18)。また愛する値打ちがありません。
例えば家や車も古くなり価値が落ちてしまいます。金銭や証券や土地も価値が変わります。インターネット上の貨幣が消えたという事件もありました。しかし、天の宝は価値が落ちません。永遠に続きます。
災害が来ると、自分のいのちよりも財産が心配になったりします。預金通帳や権利証を災害で失ってしまった人は多いのです。財産をとりに戻ったために津波に流されて命を失った人もいるのです。いずれこの地上には大きな災害が来ることでしょう。その時のために、金銭や財産を蓄えても意味がありません。しかし、神様のみこころを行う者はいつまでもながらえます(Ⅰヨハネ2:17)。
またある人は、大量の靴を持っていました。1足あれば十分とはいかず、次から次へと求めてしまったのでしょう。一種の中毒かもしれません。しかし、天の宝をもっているなら、満ち足りる心がともないます。
地上の宝を愛する愛は、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢です。これらのなかに神様はおられません(Ⅰヨハネ2:15-16)。やがて滅びます(Ⅰヨハネ2:17)。また、地上の宝に執着し、それらにより頼んでいた人も大損害を受けるのです(Ⅰコリント3:12-15)。
しかし、天の宝をともなう神様への信仰、希望、愛はいつまでも残ります(Ⅰコリント13:13)。
3.目が開かれて天の宝の価値に気づこう
地上の宝を求めて多くの人が自分の道を歩いています。そして、自分が価値を置くものしか見ていません。真に価値あるものがあっても、その価値に気づかず、天の宝がどれほどすばらしいのかわからないのです。
しかし、霊の目が開かれると、神様の下さる賜物がどれほどすばらしいか分かるのです(エペソ1:18-19)。そのとき、自然と神様を求めるようになり、天の宝を求めるようになるものです。ですから、まずは目が開かれるために、みことばに心を留めましょう(詩篇119:105,127,130)。
天の宝を見るために、みことばに親しみましょう。地上の宝ばかり見ていないで、聖書を読みましょう。宝のあるところに心(heart)があります。聖書はあなたの心臓です。
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