20.4.12.

イエスは、私たちの罪を身代わりに負い、十字架にかかり、死んで下さいました。しかし、三日目に、イエスはよみがえりました。イエスの復活は、私たちにどのような希望を与えるのでしょうか。

1.永遠のいのちの希望

もし、イエスが死んだままで、復活されなかったのなら、イエスは、神の御子ではなく、私たちと同じただの人間でしかなかったということです。そして、イエスが私たち同じ人間でしかなかったということは、イエスは私たちの罪を身代わりに負うことは出来なかったということです。それは、イエスの十字架の死は、私たちの罪の身代わりの死ではなく、単なる人間の死でしかなかったということです。ですから、神の御子でも、救い主でもないイエスを信じても、罪の赦しはなく、信じても無意味だということです(Ⅰコリ15:17-19)。

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(同20) 復活によって、イエスが確かに「神の御子」であることが示されたのです(ロマ1:4)。イエスが罪のない聖い「神の御子」であったということは、イエスが私たちの身代わりとなって、罪を負うことが出来たということです。イエスの十字架の死は、確かに私たちの罪の身代わりの死であったのです(ロマ4:25)。イエスの復活は、イエスの身代わりの死が、父なる神に受け入れられたことを示すものだったのです。

このイエスを信じるなら、「罪の赦しが受けられる」(使10:43)のです。さらにイエスを信じて罪を赦された者には、「永遠のいのち」(ヨハ3:36)が与えられます。「死」は決して自然なものではなく、罪の結果、裁きであり、呪いです(ロマ5:126:23)。全ての人が死んだ後、神の前で裁かれなくてはならないのです(ヘブ9:27)。しかし、イエスを信じる者は、「罪の赦し」と「永遠のいのち」が与えられているので、肉体が死んで、この世を去っても、天国で永遠に神と共に生きることになるのです。

2.復活の希望

聖書は、イエスの復活が、私たちの復活の「初穂」であったと教えています。「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(Ⅰコリ15:20)「初穂」とは、収穫された作物の最初のもので、収穫された作物の代表です。イエスの復活は、私たちの復活の「初穂」であったということです。イエスを信じた者は、「罪の赦し」と「永遠のいのち」が与えられただけではなく、イエスが肉体をもってよみがえられたように、肉体をもってよみがえるのです。

私たちの復活は、イエスがこの世界に再び帰って来られる「再臨」の時になされます。天に上げられたイエスは、いつの日か再びこの世界に帰って来られるのです(使1:11)。その日がいつであるかは、誰も知りませんが、必ずイエスは帰って来られます。イエスの再臨の時、既に死んで天国に上げられたクリスチャンが先によみがえります。そして、地上に生きているクリスチャンも、一瞬の内に天に上げられます。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(Ⅰテサ4:16-17)

イエスの再臨の時、私たちは新しい体をもってよみがえらされます。新しい体とは、弱さや、病気や、朽ちることもない栄光の体によみがえらされるのです。「…朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。」(Ⅰコリ15:42-44) 「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(Ⅰコリ15:52)

3.生きる希望

今、イエスは、天の父なる神の右の座で、私たちのために執り成しておられます(ロマ8:34)。そして、私たちに「もうひとりの助け主」(ヨハ14:16)なる聖霊を遣わして下さいました。聖霊が共におられるということは、イエスが共におられることと同じです。復活し、今も生きておられるイエスは、いつも私たちと共におられるのです(マタ28:20)。

「死の力」とは、肉体の死のだけではありません。私たちが心に抱く恐れ、不安、思い煩いも死の力と言えます。人生の様々な困難や問題などの試練の中で、人々は、恐れたり、不安になったり、思い煩ったりしてしまいます。まるで、墓に入られ、大きな石で蓋をされてしまったように、絶望の暗闇に閉じ込められてしまうことがあります。

しかし、私たちには希望があります。なぜなら、死に打ち勝たれ、今も生きておられるイエスが、私たちと共におられ、どんな時でも私たちを助け、守り、導いて下さると知っているからです。2千年前、地上で偉大な奇跡をなされたイエスは、今日も私たちと共におられ、私たちを救い、癒し、解放し、必要を満たし、力を与え、御業をなさいます(ヘブ13:8)。イエスが死の力を打ち破り、墓からよみがえり、死の中にとどまっていなかったように、私たちも絶望の暗闇という墓からよみがえり、希望の光の中を歩むことが出来るのです。復活のイエスは、私たちに人生の希望、生きる希望を与えて下さいました。イエスは、私たちに勇敢でありなさいと励ましておられます(ヨハ16:33)。

 

イエスの復活は、私たちに大きな希望を与えるものです。イエスは、私たちにも「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハ20:27)、「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハ20:29)と語っておられます。「よみがえり」であり「いのち」(ヨハ11:25-26)であるイエスを信じ、今も生きておられるイエスと共に、希望にあふれた人生を歩ませていただきましょう。

Filed under: 伊藤正登牧師