15.5.10.
弟子と呼ばれたドルカス
使徒9:36-42
ヨッパという港町に「ドルカス」という女の弟子がいました。
「ドルカス」はギリシャ語名で、ユダヤ名は「ダビタ」で「かもしか」という意味です。
ユダヤ人と異邦人が住む地域では、ユダヤ人の多くがへブル語かアラム語の名前と、
ギリシャ語かラテン語の名前を持っていました。
ドルカスは人々から愛され、慕われていました。どのような女性だったのでしょうか。
1.主に従い仕える
ドルカスはごく普通の女性でしたが、聖書の他の女性たちに優っていた点がありました。
それは、ドルカスがただ一人、「女の弟子」と呼ばれていたことです。
ドルカスは主に従い仕える「弟子」であったのです。
弟子とは、師との個人的な関わりを持ち、師から教えを受け、その教えを実践する人です。
ドルカスはイエス様を救い主として信じ受け入れただけではありませんでした。
ドルカスは単なる信者ではなく、実際に主に従い仕える弟子であったのです。
具体的には、ドルカスはやもめたちを助けるという奉仕をしていました。
ドルカスはやもめたちの世話にあれこれと気を配り、
衣服を作って提供するなど、愛情を込めた働きをしました。
ドルカスの信仰は実際に人に仕えるということを通して現されていました。
私たちが救われるのは、行いによるのではなく、信仰によることです。エペソ2:8。
しかし、救われた私たちは、良い行いに励むことが期待されています。エペソ2:10。
ヤコブも信仰には行いが伴うものであり、
行いのない信仰は何も信じていないことと同じであると言っています。ヤコブ2:14。
そして本当の信仰とは、孤児ややもめたちの世話をすることだと言っています。ヤコブ1:27。
ドルカスはただイエス様を信じていただけではなく、
実際にやもめたちを助けることによって、主に仕える弟子であったのです。
ドルカスの名前が「かもしか」を意味するというのも、
彼女が弱い立場に置かれた女性たちのことを心にかけ、
彼女たちを支えるために、フットワーク軽く、活発に活動していたからかもしれません。
2.自分に出来ることを精一杯する
地中海に沿ったヨッパは港町で、漁師が大勢おり、
漁に出て嵐にまもれて難破してしまい、命を失う漁師たちもいたことでしょう。
そのため、ヨッパには漁で夫を失ったやもめたちが大勢いたと考えられます。
彼女たちは夫とともに収入の道も失ってしまいました。
社会保障が整えられた今日でさえ、シングルとなった女性の生活は大変なものです。
何の保護や保証もない当時は、やもめたちの生活はどんなに大変だったことでしょう。
ドルカスは主のために何かしたいと願い、自分に出来ることを見つけ出したのです。
それは、貧しいやもめたちのために、下着や上着を作ってあけるということでした。
彼女は自分に与えられた裁縫という技術を用いたのです。
しかし、それは何も特別なことではなく、
当時の多くの女性たちも同じように裁縫をすることが出来ました。
ですから、ドルカスが行った奉仕は、決して偉大なことではありませんでした。
主に仕えるということは、何か特別な事や、偉大な事をするということではありません。
また、他の人がやっていることを真似することでもありません。
自分に出来ること、自分に与えられているものを用いればよいのです。
たとえ、それが小さな事のように思えても、喜んで、一生懸命仕えていくなら、
その奉仕は祝福されて多くの人々に喜ばれ、感謝されることとなるのです。
マルコ14:3-9。イエス様に純粋で非常に高価なナルド油を注いだマリヤは、
その機会をとらえて、「自分にできること」(8)を精一杯したのです。
マリヤの行為はイエス様を喜ばせただけではなく、
「家は香油のかおりでいっぱいになった」(ヨハネ12:3)とありますから、
その場に居合わせた人々をも香りで楽しませたことでしょう。
マリヤがイエス様に対して行ったことは、他の人の祝福ともなったのです。
どんなに小さなことでも、自分に出来る精一杯のことをするということが大切です。
3.主の栄光のために用いられる
ある時、ドルカスは病気になって死んでしまいました。
ヨッパから16kmほど離れた「ルダ」という町にペテロがいました。
弟子たちは二人の者をルダに送り、ペテロに急いで来てくれるようにと頼みました。
そこで、ペテロがヨッパに着くと、
人々はペテロをドルカスの遺体が置かれた屋上の間に案内しました。
ペテロは人々を部屋の外に出し、跪いて祈りました。
そして、ドルカスに向かって「タビタ。起きなさい」(40)と命じました。
「すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった」(40)のです。
ドルカスは死からよみがえらせていただきました。
ドルカスは単に個人的に素晴らしい体験をしただけではなく、
主の栄光が現され、人々がイエス様を信じるようになるために用いられたのです。
43節には「このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた」とあります。
ドルカスは無名な一人の女の弟子でしかありませんでした。
しかし、彼女は神様の大きな御業を体験し、神様の栄光を現す者とされ、
多くの人々がイエス様を信じるようになるために用いられたのです。
神様がご自身の栄光を現す者、ご自身の働きのために用いる者というのは、
必ずしも人間的に優れた者とか偉大な者とかではありません。
この世の無に等しい者を神様は選び用いられるのです。Ⅰコリント1:27,28
ドルカスはごく普通の婦人でしたが、主を心から信じ、主に仕える女性でした。
私たちもドルカスのように、心から主を信じ、主に仕える者となりましょう。
また、自分の出来る事を精一杯させていただき、
主の栄光を現す者、人々を救いに導く者として用いていただきましょう。
Filed under: 伊藤正登牧師