20.1.12.

イエスは「御名があがめられますように」(9)と祈るように教えました。この祈りは、どのような祈りなのでしょうか。

1.御名とは神ご自身

「御名があがめられますように」の「御名」とは、単なる神の名前ということではありません。「御名」は、神ご自身を現す言葉なのです。神は、イスラエルの指導者であるモーセに、ご自身の名を「わたしは、『わたしはある』という者である」(出3:14)と告げられました。ですから、「わたしはある」という名前が神の名前です。神は、「存在される方」であるということです。そして、「わたしはある」は、ヘブル語で「ヤハウェ」(YHWH)と言います。

しかし、モーセの十戒の第三戒では、「あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない」(出20:7)と命じられています。「主の御名」を軽んじて、自分のために勝手に使ってはならないということです。それは、神を冒涜してしまうことがないためです。「主の御名」を汚してしまうような者は、「罰せ」られなければなりません。そのため、ユダヤ人たちは、「主の御名」を呼ぶことを恐れ、「主の御名」を呼ぶことを避けるために、直接的に神を「ヤハウェ」とは呼ばず、「アドナイ」(主)という言葉で置き換えて呼ぶようになりました。または、「御名」という言い方で神を呼ぶようになりました。ですらか、「御名があがめられますように」の「御名」とは、単に神の名前ということではなく、神ご自身を現す大切な言葉なのです。

2.祈りの動機と目的は御名があがめられること

「あがめられますように」という言葉は、新約聖書の原語のギリシヤ語では、「ハギアスセートー」(γιασθήτω)となっています。その基本形の「あがめる」は、「ハギアゾー」(άγιαζω)です。「ハギアゾー」は、「聖別する」、「聖なるものとする」という意味です。ですから、「御名があがめられますように」とは、「神が聖なる方とさるように」、「神が神でないものと区別されるように」、「神が神とされるように」という祈りです。それは、「神が神として相応しい栄光を受けますように」ということです。すなわち「神に栄光が帰されますように」という祈りであり、文字通り「御名があがめられ」ることを求める祈りなのです。

私たちは、祈る時、まず何よりも自分のことを願い求めます。勿論、自分のためだけではなく、家族や友人、教会のために祈ることもあるでしょう。しかし、多くの場合、私たちの祈りは、自分のため、人のための「願い事」です。その動機や目的は、自己実現や成功や繁栄のため、自分の喜びや満足のためであったり、自分や他の人が「素晴らしいですね」とか「すごいですね」と認められるため、褒められ賞賛されるためであったりすることが多いのではないでしょうか。その祈りは、結果的に自分や他の人が栄光を受けるような祈りです。

しかし、イエスは「御名があがめられますように」と祈りなさいと教えました。「御名があがめられますように」と祈る時、私たちの祈りの動機と目的が問われます。私たちは祈る時、自分のためや人のための単なる願い事ではなく、「神が聖なる方として、他のものから完全に区別されるように」、「神が神とされ、神として相応しい栄光を受けるように」、「神に栄光が帰されるように」と祈るのです。エリヤは、イスラエルの民が「主こそ神である」ことを知ることが出来るようにと、天からの火を降らせてほしいと祈り求めました。その祈りは答えられ、民は「主こそ神です」と告白するようになりました。Ⅰ列18:36-39

3.御名があがめられる生き方をする

「御名があがめられますように」という祈りは、単なる祈りの言葉で終わりません。これは、私たちが「御名があがめられ」る生き方をしているかが問われる祈りなのです。「御名があがめられますように」と祈る者として、相応しい生き方をしているでしょうか。では、「御名があがめられ」る生き方とは、どのような生き方なのでしょう。イエスは、弟子たちに「あなたがたは、世界の光です」(マタ5:14)と言われました。そして、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタ5:16)と言われました。私たちが「良い行い」という「光を人々の前で輝かせ」ることによって、私たちの周りの人たちがそれを見て、「御名があがめられ」るようになるのです。

パウロは、「光の子どもらしく歩みなさい」(エペ5:8)と言い、「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実」(エペ5:9)であると教えています。「善意」とは、他の人のために良いことを願う親切心です。「正義」とは、法的、倫理的、道徳的な正しさ、神の前に正しいことです。「真実」とは、嘘や偽りのない本当のこと、純粋で誠実な心のことです。「御名があがめられますように」は、私たち自身が「御名があがめ」られる歩みが出来るようにという祈りでもあります。パウロは、「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリ10:31)と言っています。

 

ルターは、このような教理問答を記しています。

問「神の御名は、われわれの間でいかにしてあがめられるか」

答「われわれの生活と教理が真実にクリスチャンであるとき」

私たちがクリスチャンとして相応しい生き方をする時、「御名があがめられ」るのです。

 

願い事を神の前に述べ立てるだけではなく、「御名があがめられ」るように祈りましょう。さらに、神に栄光が帰され、「御名があがめられ」る生き方をさせていただきましょう。