16.1.3.

御心を祈り求める

マタイ6:10

「主の祈り」の前半(9,10)は、「御名があがめられること」、「御国が来ること」、
「御心が行われること」をまず第一に求めるようにということが教えられています。
そして、「主の祈り」の後半部分(11-13)で、「糧が与えられること」、「罪が赦されること」、
「悪から救い出されること」など、自分の必要を求めることが教えられています。
「主の祈り」は、私たちクリスチャンの信仰の在り方を示しています。
すなわち、私たちがまず第一に求めるべきものは、自分の必要が満たされたり、
自分の問題が解決されることではなく、「御名があがめられること」、
「御国が拡げられること」、「御心が成し遂げられること」なのです。
今日は、特に「主の祈り」の第三番目の御心が行われることを求める祈りについてです。

1.御心を求める理由

なぜ、私たちは自分の思いや願いが実現することではなく、
主の御心が実現することを祈り求めなければならないのでしょう。

① 神様が私たちの主であるから

時として、私たちは神様のことを私たちの思いや願い通りに動いてくれる
ロボットのように考えてはいないでしょうか。
そして、祈っても自分の思いや願いが実現されないと、神様に不平不満を言い、
最悪の場合は、神様に対する信仰も捨ててしまうのです。
そのように、神様を自分の目的のために利用するような祈りは極めて利己的です。
神様は、全てを造られた創造者であり、全てを治めておられる王なるお方です。
私たちは神様に造られた被造物であり、神様の支配の下にある者です。詩篇100:3。
ですから、私たちは神様の御前にへりくだり、神様の御心に従わなくてはなりません。
それゆえに、自分の思いや願いが実現することを求めるのではなく、
神様の御心が実現することを求めるのです。

② 神様は永遠の視点で最善へと導いておられるから

私たちが自分の思いや願いではなく、神様の御心が行われるようにと祈るのは、
単に神様の御心だけが正しくて、自分の思いが常に間違っているからではありません。
私たちの思いや願いにも、それなりの正しさもあり、理屈も通っているでしょう。
しかし、それらは私たち人間の限られた視点からの思いや願いでしかありません。
私たちにはそれが最善だと考えられても、それは限られた範囲の中ででしかありません。
私たち人間の考えには限界があるのです。
しかし、神様は無限なるお方、永遠なるお方です。
神様は私たち人間よりも遥かに高い視点から物事を見ておられ、
物事を時間や場所を超越した最善へと導いておられるのです。イザヤ55:8,9
ですから、神様の御心が実現されることが最善なのです。

2.御心を求める心の姿勢

自分の思いや願いではなく神の御心を求めるというのは簡単なことではありません。
御心が成されるようにという祈りは、自分の思いや願いに固執していては出来ません。
自分の思いや願いを捨てる「自己放棄」と、どんなことに従う「服従」が必要です。
マリヤは御使いガブリエルから救い主を身ごもったことを知らされました。
それは、マリヤにとって信じられないこと、避けたいことであったに違いありません。
なぜなら、それはマリヤの将来の夢や人生を壊してしまうものだったからです。
しかし、マリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。
どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と答え、
自分自身を神様の御心に明け渡したのです。
一方、マリヤの妊娠を知ったヨセフは、マリヤと別れようと決めていました。
そのようにすることが人間的に考えて最善だと考えたからです。
しかし、夢で御使いに「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい」(マタイ1:20)と語られ、
「主の使いに命じられたとおりにして」(マタイ1:24)、マリヤを妻として迎え入れたのです。
ヨセフは人間的には理解出来なくても、自分自身を神様の御心に明け渡したのです。
また、イエス様はゲッセマネの園で祈られました。マルコ14:36
十字架はイエス様にとって出来ることなら避けたいことであったのです。
しかし、「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と祈り、
父なる神様の御心に自分自身を明け渡したのです。
私たちが主の御心を求める時には、たとえ自分の願いと違っていても、
自分が理解出来ないことでも、都合の悪いことであっても、避けたいことであっても、
神様の御心に従うという信仰の姿勢を持たなければなりません。
心を空にして「神様が語られることには何でも従います」という心の姿勢を持つのです。

多くの人々が自分の願いを実現させることを求める人間中心の信仰、
ご利益信仰を持つようになってしまっています。
キリスト教界でも、人間中心の信仰ばかりが強調されているのではないでしょうか。
ただ自分の願いがかなえられ、ただ自分の必要が満たされ、
ただ自分が幸せになるためだけの信仰となってしまっているのではないでしょうか。
しかし、それは間違った信仰であり、やがて試練と共に消え去って行く信仰です。
神様の御心の実現を求める神様中心の信仰こそ、
神様の前に正しい信仰の態度であり、私たちが持つべき信仰の態度です。
自分の思いや願いに固執し、それが実現することを祈るのではなく、
「私の思いではなく、ただあなたの御心が行われますように」と、
主の御心が実現することを祈る者となりましょう。