ルカの福音書15 章の話は、有名な失われた物3選。

まず 99 匹の群れを残して失われた1匹を探しに行く羊飼いの話と、銀貨10枚のうち1枚を失くした女性の話が出て来た後で、最後の譬えとして失われた2人の息子の話に続いて行く。

ほとんどの注解では、財産を貰って使い果たした弟の方に視点が向けられるが、 実は父と家に残った兄の方も父から心離れていたが故に失われた息子の話に数えられている。

弟の度の過ぎた父に対する失礼さは言うまでもないが、弟の言い分を聞いて財産を分ける父親も相当物分かりが良い人物である。

弟は自分の思うがままに遠くまで旅立ち、世の中の厳しい荒波の中で財産を使い果たしてしまう。

明日の生活もままならなくなり、食べる物にも事欠くようになると、 後悔の念が押し寄せてくる。

お父さんの家に帰ろう、そして謝って、助けてもらおうと考えたのだろう。

非常に虫の良い話である。

一方家で家業を継いで守っていた兄は、 弟の帰還を心から喜ぶ事が出来なかった。

それどころか、 弟を受け入れる父親に対して不満と怒りをぶつけるのだ。

最初の2つの短い話と対照的に、失われた物が見つかっても、 家全体が喜んだという結果にならなかったのは、 非常に後味の悪い簡潔になっている。

しかし、この2人の兄弟の狭間で、弟の帰還を今か今かと待ちわび、不満をぶちまける兄に「私の物はすべてお前の物だ。」と声をかけてたしなめるお父さんの心の広さのみが浮き立って描かれている。

どちらの兄弟に対しても、大きな心で自分の心も財産も惜しみなく使い切るお父さんの姿、 それが天の父なる神の姿だと主は教えたかったのだろう。

受けるべき価値のない罪人の私たちの為に、独り子イエスを十字架で捧げ、 屠った神の痛みは私たち人間の感覚でも測り知ることはできない。

むしろ、けちんぼな兄の様に裁き、父と共に喜べない人間の肉の本心がある罪人である事を日々気づかされて生きている。

御霊の喜びに満たされて、神様の喜びを自分の喜びとして毎日生きたいものである。

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