20.1.1.
主は、人間が簡単に想像出来るような事、予測出来る事をではなく、誰も考えもしなかった事、今までなかった新しい事をして下さいます(Ⅰコリ2:9)。
1.新しいぶどう酒は新しい皮袋に
「パリサイ人」や「律法学者たち」は、「ヨハネの弟子たち」や「パリサイ人の弟子たち」が「断食」しているのに、イエスの弟子たちが「食べたり飲んだりして」いることを批判しました(33)。パリサイ人や律法学者たちは、律法を忠実に守り行う生活をしていました。律法は、神の民が神の民としてこの世から聖別され、清い生活を送るためのガイドライン(基準)でした。ユダヤ人たちも初めは、純粋な動機で律法を守り行っていました。しかし、やがて、あまりにも完璧に律法を守ろうとしたため、律法のほかに、律法を守るための新たなルール(規則)を自分たちで考え出しました。そして、いつの間にか、自分たちのルールを守ること自体が目的となってしまったのです。そして、そのルールを守らないことを「悪」としたのです。ですから、パリサイ人や律法学者たちは、イエスの弟子たちがルールに従って「断食」せずに、「食べたり飲んだりして」いることを批判したのです。パリサイ人や律法学者たちは、自分たちの古い考え方ややり方に囚われていたため、イエスによる新しい恵みを理解することも、受け入れることも出来ませんでした。
イエスは「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません」と言われました。「新しい皮袋」は、柔らかく、柔軟性があります。しかし、「古い皮袋」は、硬くなってしまい、柔軟性がありません。「新しいぶどう酒」は、まだ活発に発酵しているので、「古い皮袋」に入れると、発酵の圧力で柔軟性のなくなった「古い皮袋」を張り裂いてしまいます。しかし、「新しい皮袋」は、柔軟性があるので、「新しいぶどう酒」の発酵の圧力に耐えることが出来ます。ですから、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければ」ならないのです。古いものに新しいものを取り込もうとしても、古いものはそれに耐えられずに破壊され、新しいものも駄目になり、結局古いものも新しいものも両方とも無駄になってしまいます。主は、私たちに新しい恵みを与えようとしておられます。そのためには、私たちも「新しい皮袋」となることが必要なのです。
2.新しい皮袋とは新しい心
「新しい皮袋」とは、「新しい心」のことです。
① 教えられやすい心
「新しい心」とは、「教えられやすい心」であり、へりくだって学ぼうとする姿勢です。ある程度、聖書のことも分かってくると、自分は何でも知っている、自分は絶対正しいと思い込み、謙虚になって聞いたり、学んだりしなくなってしまいます。そのため、パリサイ人や律法学者たちは、イエスの語る真理を理解することも、イエスが与えて下さる恵みも受け入れることも出来ませんでした。イエスは、マコ4:3-9の「四つの土地」のたとえ話の後で、「聞く耳のある者は聞きなさい」と、「聞く耳」を持つようにと言われました。よく耕され、石も取り除かれた柔らかな「良い地」のように、私たちも、プライドという石を取り除き、「教えられやすい心」で聞き、学ぶのです。時には、自分が聞きたくないことでも、聞かなければなりません。
② 融通のきく心
「新しい心」とは、「融通のきく心」であり、どのような事柄や状況にも柔軟に対処、対応出来るという能力です。人は変化を嫌うものです。今まで慣れ親しんできたことを変えたくないものです。一つの事をパターン化して、同じことをただ繰り返すだけになってしまいがちです。そのようなパターンの中にあることは楽ですし、安心感が得られます。しかし、それは、形式主義的なものとなる危険性もあります。そして、そこには何の変化も、進展もありません。私たちは、古い考え方、既成(固定)概念、今までのやり方に縛られてはなりません。パリサイ人や律法学者たちに足りなかったのは、正にこの融通性と柔軟性でした。私たちは、神に対して「どんな導きにも従います」という心構えが必要です。
③ 粘り強い心
「新しい心」とは、「粘り強い心」であり、それは根気よく最後までやり遂げようとすることです。何か新しい事を始めようとすると、困難や問題も起こります。また、その新しい事が実を結ぶまでは時間がかかることもあります。しかし、すぐに上手くいかないからと言って、諦めてしまったり、途中で投げ出したりしてはなりません。新しい事を始めることは、簡単なことです。しかし、大切なことは、それが実を結ぶまで続けるということです。木が成長して実を結ぶようになるためには、その地に深く根を下さなければなりません。しっかりとその地に根付くためには、耐え忍ぶことが必要なのです。ヘブ10:36-39。
主は、私たちの人生に「新しい事」をして下さいます(イザ43:18-19)。それは、二つに分かれた紅海の乾いた地を歩むというような(イザ43:16-17)、今までなかった、また考えもしなかった全く「新しい事」です。それは、私たちにとって「災い」(試練)と思える形でやって来るかもしれません。そのような時、主の考えが理解できず、戸惑ったり、恐れたり、不安を感じるでしょう。しかし「教えられやすい心」と「融通のきく心」と「粘り強い心」で受け止めるのです。最悪と思われる状況の中でも、主が「新しい事」をして下さることを期待しましょう。
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