20.2.9.

「主の祈り」の後半は、人間に関わる祈りであり、私たちの必要を求める祈りです。その初めの祈りは、「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」(11)です。

1.私たちの必要を神に求める

私たち人間が生きていくために、最低限必要なものは、食物です。食物がなければ、私たちは生きていくことが出来ません。私たちは、「日ごとの糧」が与えられるように祈らなくてはなりません。

しかし、「糧」とは、食物だけではなく、お金、仕事、健康、衣服、住居、教育など、私たちが生きていくために必要なもの全てが含まれています。この「日ごと」と訳されている言葉は、ギリシヤ語で「エピオウシオス」といい、とても珍しく、訳すのが難しい言葉ですが、「必要な」という意味もあります。ですから、「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」という祈りは、「私たちに毎日、必要なものを、今日もお与え下さい」という祈りです。私たちは、まず御名があがめられ、御国が到来し、御心が行われることを求めますが、自分に必要なものが与えられるために祈ることも出来るのです。「おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に」(ヘブ4:16)近づけるのです。

しかし、この祈りを祈る時、今自分が祈り求めているものが、自分が生きていくために本当に必要なものであるかどうかが問われます。私たちは、本当に必要なものを求めているのでしょうか。それとも、本当は必要でないものを求めていることはないでしょうか。「日ごとの糧」、すなわち「日ごと」に必要なものが与えられるように祈りましょう。

2.必要を備えて下さる神に信頼する

世の中には、「自分は自分の力で生きている。神の力などいらない」という人がいます。これは、とても傲慢な言葉です。本当に、自分の力だけで生きているのでしょうか。私たちは、自分の力だけで生きているのではなく、神に生かされているのです。主が祝福して下さらなければ、どんなに労苦しても祝福はないです(箴10:22、詩127:1-2)。決して努力する必要が無いということではなく、どんなに努力しても、神無しの努力であるなら、その努力は報われないということです。

主は、私たちの全ての必要を知っておられ、満たして下さるお方です。イスラエルの民が40年間、荒野を旅していた時、毎朝、天からのパン「マナ」が地の上に降って来ました。彼らは、毎朝、その日に必要な分のマナを集めなければなりませんでした。次の日の分を集めても、次の日まで保存がきかず、腐ってしまいました。安息日には、マナは降ることがなく、マナを集めることは出来ませんでした。しかし、安息日の前日に、二日分のマナを集めることが出来、それは腐ることなく、安息日にもマナを食べることができたのです(出16章)。これは、神が「日ごとの糧」を与えることの出来る方であることを示すものでした。彼らは、必要を備えて下さる神に信頼して歩まなければならなかったのです。

神は、私たちの必要を全て知っておられ、必要なものを与えて下さいます(マタ6:8、31-32)。私たちは、この神を信頼して、「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈るのです。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」という祈りは、「神に支えられて生きている」という思いが表われている祈りなのです。

3.必要のある人々を支援する

この祈りでは、「私の」ではなく「私たちの」という言葉になっています。これは、単に自分の必要が満たされることだけを祈るのではなく、自分以外の他の人たちの必要も満たされるように祈ることを示しているのです。世界中の飢饉に苦しむ人々にも食物が与えられるように祈らなければなりません。

しかし、この祈りは、単なる祈りだけで終わるものではなく、行動を促すものです。神は、全ての人が飢えることなく、食べて満ち足りるようになることを望んでおられます。イエスは、5千人以上の空腹の群衆に何か食べ物を与えるようにと弟子たちに言われました(マタ14:16)。そして、5つのパンと2匹の魚で彼らを食べさせ、満腹させました(マタ14:19-20)。また、その後、イエスは、4千人以上の空腹の群衆を見て「かわいそう」に思われ、「彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから」と言われました(マタ15:32)。そして、7つのパンと僅かな小さい魚で彼らを食べさせ、満腹させました(マタ15:36-37)。

イエスは、人々の肉体的必要にも関心を持ち、空腹を満たしたいと願っておられます。そして、私たちにも「あなたがたで、あの人たちに何か食べ物を上げなさい」(マタ14:16)と語っておられるのです。私たちの手にあるものは、「少年」(ヨハ6:9)が持っていた5つのパンと2匹の魚のように、大きな必要に対して、ほんの僅かなものでしかないかもしれません。しかし、それを主にささげる時、主は、それを何倍にもして用いて下さるのです。自分の「日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈るだけではなく、「日ごとの糧」を必要としている人々に、実際に食物を提供することも必要なのです。

 

神は、私たちの肉体的、物質的な全ての必要を知っておられ、必要なものを全て与えて下さいます。神の前にへりくだって進み出て、自分の必要とするものを神に祈り求めましょう。また、私たちは、自分の必要だけではなく、人々の必要にも目を向けて、その必要が満たされるように、執り成して祈らなくてはなりません。そして、自分に出来ることがあるなら、実際に支援しましょう。

Filed under: 主の祈り伊藤正登牧師