23.2.12.

2.形だけの信仰だった

イスラエルがペリシテ人との戦いに敗北した時、イスラエルの長老たちは、「シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真ん中に来て、われわれを敵の手から救おう」と言いました。彼らは「それ」すなわち「契約の箱」がイスラエルを「敵の手から救おう」と考ええました。なぜならイスラエルの民は「契約の箱」が共にあることによって奇跡を見てきたからです。

ヨシ3:14-17。イスラエルの民がヨルダン川を渡ってカナンの地に入る時、「契約の箱」を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川に入った時、水はせき止められました。これによってイスラエルの民は、ヨルダン川のかわいた地を歩いて渡ることが出来ました。

ヨシ6:1-21。イスラエルの民がエリコを占領する時、町の城壁の周りを行進しました。その時、武装した兵士たちの中央に「契約の箱」を担ぐ祭司たちが進みました。イスラエルの民は、エリコを一日一回まわり、七日目は七回まわり、イスラエルの民がときの声を上げると、エリコの町の城壁は崩れ落ちました。

イスラエルは、ペリシテ人との戦いの場所に「契約の箱」を運んで来ました。彼らは、「契約の箱」がイスラエルに勝利を与えると考えていたのです。彼らは、主なる神にではなく、「契約の箱」に信頼するようになっていました。「契約の箱」を幸運のお守りのように考えていたのです。

「契約の箱」は、主の臨在を現わすものですが、神ではなく、単なる物に過ぎません。しかし、イスラエルの民は、「契約の箱」を神と同じように考え、頼っていました。神以外に、神のように頼ってしまうなら、それは偶像です。「契約の箱」は、イスラエル人にとって、偶像となってしまっていたのです。偶像には何の力もありませんから、偶像に頼っても何の勝利もありません。ですから、イスラエルは、ペリシテ人に打ち負かされてしまったのです。

イスラエルの民は、「契約の箱」そのものに力があるのではなく、そこに臨在される主ご自身に力があることを忘れてしまっていました。彼らは、「契約の箱」に信頼し、そこに臨在される主ご自身には信頼していませんでした。彼らの信仰は、形だけの信仰であり、そこには主の臨在も力もありませんでした。イスラエルの民は、形式的・表面的には、主を信じているようでした。しかし、主との個人的な生きた交わりを持っていませんでした。

私たちの信仰も、形式的・表面的なものとなってしまってはいないでしょうか。私たちは、主との交わりを日々新しいものにしていかなければなりません。ダビデは、主を愛し、常に主との親しい交わりを求めていました。。「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(詩27:4)「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。」(詩84:10) 私たちも、主との交わりを慕い求め、主の臨在にとどまることが必要です。

 

イスラエルの民は、主ご自身にではなく「契約の箱」に信頼しました。彼らは、主ご自身、主の臨在を求めようともしませんでした。その代わりに、人間的な考えや方法で、問題を解決しようとしたのです。表面的な宗教的行為ではなく、主の臨在から、主の力が現われます。日々主を求め、主との交わりを持ち、主との生き生きとした関係を持ちましょう。主の臨在と栄光を失わず、常に主の臨在と栄光に満たされましょう。

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