19.3.10.
ダビデは「主は私の羊飼い」と告白し、「私は、乏しいことがありません」と言っています。これは詩篇23篇全体のテーマとなっていて、その理由が2節以降で説明されています。「乏しいことがありません」ということの第1の理由は、主が私たちを「緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われ」るからです。「羊飼い」が「羊」たちに必要な草を与え、水を飲ませて下さるように、主が私たちの必要を全て満たして下さるので、安心し、満ち足りることが出来るのです。3節には、私たちが満ち足りることが出来る第2の理由が書かれています。
1.たましいを生き返らせる主
私たち人間は、「霊、たましい、からだ」(Ⅰテサロニケ5:23)によって構成されています。「霊、たましい」は、私たち人間の本質です。かつて私たちは「自分の罪過と罪との中に死んで」(エペソ2:1)いました。神は、最初の人アダムとエバに「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世2:17)と言われていました。しかし、アダムとエバは、神の言葉に背いて、その木の実を食べてしまいました。それによって、すぐに肉体的に死んでしまうことはありませんでしたが、神から的を外し、神から離れてしまったのです。つまり、霊的に死んでしまったのです。霊的に死んでいる人は、この世の流れに流され、悪魔に支配され、欲望のままに生き、神の裁きを受けて滅びなければなりません(エペソ2:2-3)。
しかし、主は憐れみ豊で、私たちを愛して下さいました(エペソ2:4)。そして「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」(エペソ2:5)て下さったのです。キリストは、私たちの身代わりに罪を負って、十字架で裁かれ、死んで下さいました。このキリストを信じた時、神の恵みによって、私たちは救われました。すなわち、キリストによって、神に立ち返ることが出来たのです(Ⅰペテロ2:22-25)。こうして、主は、私たちの「たましいを生き返らせ」て下さったのです。
2.義の道に導く主の声を聞き分ける
「羊飼い」なる主は、霊的に回復した私たちを「義の道に導かれます」。主は、私たちに御心の道を指し示して下さるのです(イザヤ30:21)。「羊」は「羊飼い」の「声を聞き分け」(ヨハネ10:3)、「ついて行きます」(ヨハネ10:4)。どのようにして、主の「声を聞き分け」ることが出来るのでしょう。
① 聖書の言葉に合っているか
聖書には、御心が明記されています。聖書によって、御心を知ることが出来ます。主は、私たちが聖書に反することをするように導くことはありません。与えられている思い、しようとしていることを、御言葉に照らし合わせてみましょう。私たちは、聖書の御言葉によって、正しい道へと導かれるのです(詩篇119:105)。
② 平安があるか
主が私たちのために持っておられる計画は、「平安を与える計画」(エレミヤ29:11)です。主の御心であるならば、心に平安が与えられます。平安は主の「ゴー・サイン」です。しかし、それは単なる人間的な平安ではありません。常識的には平安でいられないような状況であるにも関わらず与えられる平安です(ヨハネ14:27)。
③ 愛が動機となっているか
自分がしようとしていることは、主への愛、他の人への愛が動機となっていますか。自己中心的な思いや願いから出ているなら、自分の肉的なものであり、御心ではありません。悪い動機でやろうとしてもうまくいきません(ヤコブ4:3)。どんなに素晴らしいことであっても、愛が無いなら、無意味です(Ⅰコリント13:3)。
④ 教会の徳を高め、他の人の益となるものか
教会の兄弟姉妹や他の人を励ますものとなるでしょうか(Ⅰコリント10:23-24)。他の人に躓きを与えることにならないでしょうか(Ⅰコリント10:32)。人々への証となり、人々を救いに導くことに役立つでしょうか(Ⅰコリント10:33)。自分だけではなく、兄弟姉妹や他の徳を高め、益となるようにするべきです(ローマ15:2,3)。
➄ 信頼出来る人からの同意があるか
独りよがりとならないため、信頼出来る人によるが確認必要です(Ⅱコリント13:1、箴言12:15)。信頼出来る人とは、主を畏れ愛する人で、御言葉に忠実に従っていて、教会でも社会でも良い証を立てている成熟したクリスチャンです。信頼出来る人がそれを聞いても、主の導きだと判断出来るなら、それは本当に主の導きです。
⑥ 道は開かれているか、閉ざされているか
主の御心や導きは、状況から判断することも出来ます。御心であるなら、驚くべき方法で道が開かれ、御心でないなら、理由は明確でなくても、その道は閉ざされます(使徒16:6-10)。しかし、状況だけに縛られないことも大切です。主は常識を超えて働かれることもあるからです。
⑦ 主の栄光を現すものか
主の御心、導きであるなら、主がほめたたえられるようになります。私たちの人生の目的は、主の栄光を現すことです(Ⅰコリント10:31)。「御名があがめられ」(マタイ6:9)ることを求めましょう。主は「御名のため」すなわち主の栄光のために、私たちを「義の道に導かれ」るのです。
主は、御心を求める人に御心を教え、導きを求める人を導いて下さいます。自分の願いや考えを押し通そうとするのではなく、従う心で導きを求めましょう。答えに時間がかかり、辛抱強く待たなければならないこともあります。Cf.ハバクク2:3。正しい道に導かれる「良い牧者」(ヨハネ10:11)の「声を聞き分け」、「ついて行き」ましょう。