死に至るまで忠実であれ
黙示2:8-11
21.8.8.
「アジアの七つの教会へのメッセージ」の第2は「スミルナにある教会」に対するものです。スミルナ教会には、叱責の言葉と悔い改めを促す言葉はありませんでした。スミルナ教会については、4節しか語られていませんが、どのような教会だったのでしょう。
1.永遠に存在し、死に勝利し生きておられるキリスト(8)
「初めであり、終わりである方」とは、キリストが過去、現在、未来において存在される方、永遠に存在される神であるということです。Cf. 黙1: 8、1:17-18、22:12-13。ヘブ13:8。「死んで、また生きた方」とは、キリストが復活された方であることです。キリストは、十字架で死なれましたが、死に勝利して復活し、今も生きておられます。Cf.ヨハ11:25。当時、ローマ皇帝は、神として崇められ、恐れられていました。しかし、キリストこそが永遠の神、死に勝利し生きておられる神なのです。
2.賞賛の言葉 : 迫害(苦しみと貧しさとののしり)に耐えた(9)
① 苦しみと貧しさに耐えた (皇帝崇拝者からの迫害)
キリストは、「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている」(9)と言われました。スミルナ教会の「苦しみと貧しさ」は、信仰のゆえの迫害によるものでした。また、この「知っている」という言葉は、単に知識として知っているということではなく、スミルナ教会の「苦しみと貧しさ」を理解している、分かっているという意味です。当時、クリスチャンたちは財産を没収され、仲間はずれにされ、仕事も与えられず、生活費を稼ぐことすら出来ず、極貧状態でした。しかし、キリストは「しかしあなたは実際は富んでいる」(9)とも言われました。彼らは、神の前には富んでいて、天においては報いが用意されていました(マタ5:11-12)。またどのような境遇でも、喜び、感謝出来るなら、それが本当の豊かさです(Ⅱコリ6:8-10)。
② ののしりに耐えた (ユダヤ主義者からの迫害)
「ユダヤ人だと自称している」者たち、「サタンの会衆である人たち」とは、クリスチャンたちを迫害していたユダヤ教徒(ユダヤ教主義者)たちのことです。彼らは、クリスチャンを迫害することによって、神に仕えていると考えていましたが、実際には神に敵対する「サタンの会衆」になってしまっていました。彼らは、クリスチャンに酷い言葉で悪口を言い、声高に非難していたのです。しかし、スミルナ教会は、迫害による「ののしり」に耐え、信仰を守っていたのです。スミルナ教会は、「苦しみと貧しさ」、「ののしり」を耐え、忠実に信仰を守り通したのです。
3.励ましの言葉 : 恐れず死に至るまで忠実であれ(10)
① 受けようとしている苦しみを恐れてはいけない
キリストは、スミルナ教会が今まで以上に苦難を通らなくてはならないことを予告されました。しかし、迫害の中にあるスミルナ教会に「牢に投げ入れようとして」も、「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない」(10)と語られました。理由が2つ。
a) 苦しみは信仰が試みられるため
スミルナ教会の「受けようとしている苦しみ」は、彼らの信仰が本物か偽物かを「ためす」ための苦しみであるというのです。サタンがヨブに様々な災いをもたらし、ヨブの信仰をためしたのと同じです(ヨブ1:9)。迫害や苦しみは、私たちの信仰をきよめ、強めるために、神が許されたものなのです。だから、聖書は、迫害や苦しみなどの試練を喜ぶようにと教えています(ヤコ1:2-4)。
b) 苦しみの期間は限定的である
キリストは、「あなたがたは十日の間苦しみを受ける」と語られました。スミルナ教会の「受けようとしている苦しみ」は、永遠に続くものではなく、限られた期間の中でのことであると言われたのです。必ず終わりがあるのです。ですから、迫害や苦しみの中でも、忍耐をもって信じ続けるのです。
② 死に至るまで忠実であれ
この「死に至るまで」という言葉は、普通は「死ぬ日まで」という意味ですが、たとえ「殺されることがあっても」という意味としても受け取ることが出来ます。主が求めておられることは、ただ「忠実」であることだけです。様々な苦しみや迫害があっても、途中で止めたり、逃げたりすることなく、「死に至るまで忠実」に歩み続けることが大切です。
4.勝利を得る者に対する約束
① いのちの冠が与えられる(10)
キリストは、最後まで信仰を守り続ける者に対して、「いのちの冠を与えよう」(10)と語られました。Cf.ヤコ1:12。「いのちの冠」とは、イエスを信じる者に約束される「永遠のいのち」です。古代オリンピックでは、競技に勝った人に月桂樹の冠がかぶせられました。しかし、主が下さる「冠」は、朽ちることのない永遠の「いのちの冠」です。
② 第二の死を免れる(11)
主は「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない」(11)と語られました。「第二の死」とは、「永遠の死」のことで、最後の審判の日、不信者たちは、神の前で裁かれ、永遠に「火の池に投げ込まれ」るのです。Cf.黙20:14-15。しかしキリストを信じた者の名は「いのちの書」に記されています。Cf.ルカ10:20。黙13:8。たとえ信仰の故に死を経験しても、「第二の死」を免れることが出来るのです。
「スミルナ」とは「没薬」という意味です。没薬は、死体を葬るときに使う香料です。スミルナ教会は、激しい迫害の中で、信仰の故に死を経験しました。しかし、彼らは、「死に至るまで忠実」に信仰を守り通しました。その殉教者たちの死は、神の前に香料のように良い香りを残したのです。Cf.詩116:15。スミルナ教会のように、「死に至るまで忠実」な者となりましょう。
Filed under: アジアの7つの教会へのメッセージ • 伊藤正登牧師